しかしカレンバウアーは、自分の家に来るメリットをプレゼンしてくる。
『私の住居は3LDKで、部屋が余っています。また、リビングにアップライトピアノがあります。私は仕事で家にいないことも多いので、片山さんが室内もピアノも自由に使うことができます』
ピアノという文字に、三喜雄の心が揺れた。実は三喜雄は、まがりなりにも音楽家でありながら、実家を含めて自宅にピアノがある生活を送ったことがない。ピアノは超贅沢品であり、歌の練習はキーボードで事足りるからである。
しかしピアノがあるなら、そのほうがいいに決まっていた。三喜雄は練習で弾き語りはあまりしないが、キーボードで伴奏の音域をフォローできない場合、音楽の流れの確認やイメージ作りに困ることがある。また、学校で教えるようになってから、ピアノの練習が必要な場面が出てきた。そういう時は、ピアノを設置している貸しスタジオに駆け込むのだが、不便で不経済と言えなくもなかった。
カレンバウアーは元ピアニストだから、たまに弾いているのかもしれない。ならば、あまり他人にピアノを触らせたくないのではないかと思うのだが……。三喜雄は揺れる心を立て直し、丁重に断りの返事をする。
『いくら何でも、それはご迷惑に過ぎます。おそらく週末が休みなのは、私もカレンバウアーさんも同じですから、そんな日に私が歌ってカレンバウアーさんを疲れさせるわけにはいきません。しかし、ご厚情には心から感謝いたします』
送信して、ひとつ息をついた。ふと、お願いしますと図々しく言ったほうがいいのだろうかと考えてしまう。住むところがどうなるのかわからないというのは結構ストレスが強く、解決すれば先を見通しやすくなるからだ。これまで4回引っ越しを経験した三喜雄は、そのことを痛いほど理解していた。
メールのやり取りはそこで止まった。またばっさり断ってしまったので、今度こそカレンバウアーを怒らせたのかもしれない。そう考えるとややへこんだが、これは肉をご馳走になったり、服を買い与えてもらったりするよりも重い案件だ。いくら何でも、あっさり首を縦に振る訳にはいかなかった。
その時ふと、デパートでカレンバウアーに買ってもらった黒いシャツと紫色のネクタイが、まだ1回も着ていないのに駄目になってしまったかもしれないと気づき、三喜雄は純粋に悲しくなって沈んでしまった。
その後父が、家族を代表してメールをくれた。心配をかけていることに、胸の中がちくちくした。父は母と結婚する前、会社の東京本社で勤務しており、三喜雄が誘惑の多い東京で独りで暮らすことに対して、今でも(外国で3年暮らした息子を)少し心配している。姉一家も心配しているので、状況を逐次報告するようにとあり、もう体調は元通りだが、家がどうなっているのかわからないことが、目下気になることだと正直に返しておく。
早いけれどもう寝よう。ニュースは気になったものの、カードを買ってまでテレビを見ようと思わなかった。今日はSNSも更新していないが、マンションが火事になったと書き込んで、3千人を超えたフォロワーをみだりに心配させてしまうのも心苦しい。
三喜雄はゆっくりと歯を磨き、片手で顔を洗った。瀧が買ってきてくれた洗顔料とオールインワンの化粧水を、有り難く使わせてもらう。
スマートフォンをコンセントに繋いで、ベッドにもぐり込んだ。リモコンを手にして、ふと部屋の明かりを全て落とすのが怖くなり、豆電球を残した。いつも真っ暗にして寝ているのに、と思う。
非常事態なんだから、仕方がない。三喜雄はそう思い直して、大きく深呼吸した。いつもそうなのに、今夜は何故か、独りで寝ていることに不安を覚える。スマホとナースコールの場所を確認してから、目を閉じた。