夕飯の後に指の包帯を変えてもらってから、三喜雄は洗濯物を紙袋に入れて、ランドリーコーナーに向かった。人気が無く半分以上明かりの落ちた総合病院を探検するのは楽しかったが、助けられた時に来ていた服と、管楽器奏者の女性から借りたタオルマフラーを紙袋から出した時、やはり背筋がざわざわした。煙の臭いがふわっと漂ったからだ。
深呼吸し、気を取り直してコンビニに立ち寄ると、やはりワイヤレスのイヤホンまでは取り扱っておらず、ちょっとがっかりした。代わりに、ちょっと気になっていた、書店員が選ぶ賞を受けたという小説を買う。病室に戻って、洗濯の仕上がりを待つ間、それに目を通した。
20時を過ぎると、病院の中は本当に暗く静かになる。ふわふわに仕上がった洗濯物に、忌まわしい臭いがついていないことを確認してから、ランドリーコーナーを出た。コンビニでは、医師らしき女性がパンとコーヒー牛乳を買っていて、レジの中年女性と軽く雑談を交わしている。三喜雄はそれを見て、ある種異世界に来たようだと思った。
消防士がてきぱきと取り残された人を救助したり、看護師が患者の様子に24時間目を配ったりするのを初めて目の前で見て、彼らはどうやって、どれくらいの時間をかけてあのスキルを身につけるのだろうと、興味が湧いた。
三喜雄は大学に入学してから30を過ぎた今まで、結局のところ、音楽の世界しか知らない。音楽しかできない人になりたくないとずっと思ってきたのに、今のところ、音楽以外あまり何もできない人になってしまっている。
だだっ広いエレベーターに乗り込んで、そうか、と思い当たった。ドマスのCMに関わって以来、音楽と教育以外の職種の人と沢山知り合ったからだ。だから今更、こんなことが気になるらしい。
病室に入った途端、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが震えた。ノア・カレンバウアーからの、気分はどうですか、というメールだった。それを読んで、三喜雄は少し気恥ずかしくなる。
いくら非常事態だったとはいえ、彼の前で取り乱して泣いて涙を拭かせたり、手を握らせてうつらうつらしたりするなんて、いくら何でも、知り合ったばかりの、しかもスポンサーである人に対してだらしなさ過ぎる。彼が自分にどのような種類の好意を抱いていようが、あんな態度はよろしくない。
電子機器上でのやり取りは、翻訳ソフトを使っているのだなと納得しつつ、三喜雄は迷惑をかけ通しであることをまず詫びた。そして、シャワーを浴びて食事を済ませ、のんびりしていると返事した。彼が会社にいるのか、帰宅しているのかよくわからないが、またすぐにメールが来る。
『よかったです。安心しました。不動産屋に、部屋を探してみてほしいと頼みましたが、片山さんの通勤に便利な場所で防音の住居は、すぐに見つからないだろうということでした』
カレンバウアーが本当に不動産屋にアプローチしていると知り、三喜雄はますます申し訳なくなった。
『ありがとうございます。お手を煩わせて、申し訳ありません。退院したらホテルの部屋に行けそうですし、まだ家の状況もわからないので、急いでいただかなくてもいいと思います』
送信して洗濯物を畳んでいると、また着信がある。
『家の状態にかかわらず、住居が落ち着くまでの間、私の家で暮らしませんか? 目黒駅から歩いて8分のマンションです。完全な防音ではないですが、ピアノを持つ家庭も複数住んでいますので、常識の範囲内なら練習もできます』
「……は?」
三喜雄はカレンバウアーのメールを2度読んだが、翻訳ミスではないかと思った。大きな会社のトップが、騒音を撒き散らす、やや社会不適合気味の人種を下宿させるなど、ちょっとあり得ない。