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6月 27

 現場がかなり酷い状況で、噂が拡散しているということらしい。三喜雄はマネージャーの気遣いを有り難く受け止める。数日以内に、この目で見ることになるのだろうけれど。

 件のピアニストがどうなったのか、瀧は知らないだろうか。気になるが、確かめたくない気もした。もし本当に死ぬつもりで部屋に火をつけたとして、あの状況なら、住人は目的を果たしたように思えてならない。

 瀧は三喜雄がやや沈んだ様子になったことに、すぐ気づいた。


「とにかく、お住まいのことも私たちがバックアップしますから、片山さんはやりたいお仕事を選ぶことに注力してくださいね」


 三喜雄も自分を鼓舞するように、はい、と答える。


「ファイル見ました、どれも楽しそうなので困ります」


 瀧は笑顔になり頷いた。


「それはよかったです、全部受けると集中するので吟味しましょうね……合唱連盟の『カルミナ』は、降りた酒井さんとの話がきっちりついていることが確認できたら、正式に受けます」

「すみません、お願いします」


 瀧が病室を去ってから、三喜雄はペンケースに入っていた小さなハサミで、真新しいタオルやスウェットのタグを切った。夕食までに、シャワーを浴びようと思った。おそらく病院に担ぎ込まれた時に、髪や顔は拭いてくれたのだろうが、鼻の中から出てきたのと同じどす黒いものが、全身に薄くまとわりつく感じが気になっていた。

 病室のシャワーは、狭いが清潔で、湯の温度も水量も快適だった。瀧が買ってきてくれたシャンプーで、右手だけを使い思いきり泡を立てて髪を洗う。普段使っているものより甘い匂いがしたが、それに何となくほっとした。

 カレンバウアーも瀧も、三喜雄のために買ってきてくれたものの代金を受け取ってくれないので、どうしたものかと思う。いわゆる、経費で落とす、というやつだろうか。


「ああ、きもちい」


 左手以外の身体の隅々を洗って、思わず声が出る。お金のことも、家のことも、ちょっとどうでもよくなってしまう。最終的に行き着くのは、歌いたいという本能に近い気持ちだった。

 病室やホテルの部屋では、思いきり声が出せない。本当に喉は大丈夫なのか、確認し切れていない不安もあり、今すぐ歌いたかった。


「『昼も夜も、四六時中』……」


 「カルミナ・ブラーナ」のバリトンソロのうちの一曲の冒頭を、ちらっと歌ってみたが、すぐにやめた。どうしてこんなエロい曲が出て来たんだろうと、勝手に恥ずかしくなった。それにこの曲には、テノールでも難しい高い音域で細かい音を転がす部分があり(何故バリトンに歌わせるのか謎だ)、いずれにしろ今の三喜雄には歌えない。

 年末は低音を鍛えたけれど、今度はファルセットか。そんなことを考えながら、身体の泡を流して湯を止めると、三喜雄はバスタオルで顔を押さえて、新しいタオルの柔らかさを楽しんだ。


「……がんばろ」


 身体がさっぱりしていい具合に温まると、前向きな気分になる。やはり音楽を聴きたいという欲求が捨てられないので、もしコンビニがまだ開いているなら、夕飯の後でイヤホンを探しに行こうと思った。

 処方してもらったうがい薬でうがいをしていると、夕食が運ばれてきた。着替えて髪を洗いっぱなしにしている三喜雄を見て、あら、と看護師が言う。


「さっぱりしました? ご飯の後で、左指の湿布も替えますね」

「あ、ありがとうございます」


 看護師によると、1階の奥に入院患者用の洗濯乾燥機が数台あるという。コンビニは医療従事者も使うので、22時まで開いているらしく、病院も便利になっているのだなと三喜雄は感心した。

 一日中ゴロゴロしているのに、食べてばっかりだ。後で、院内の探検と散歩に行こう。三喜雄はいただきます、と独り呟き箸を取る。軽いプラスチックの椀に入った味噌汁を口にすると、味はやはり薄いが、熱々なので満足した。


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