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6月 21

 看護師の指示に合わせてベッドから脚を下ろすと、ふらついたが車椅子や杖を使わなくても良さそうだった。薄い病衣の下にパンツだけしか身につけていないことに今更気づき、何となく頼りなかったが、看護師に付き添われて向かった耳鼻咽喉科の診察室周辺には、ほとんど誰もいなかった。

 医師はカルテを見て、何故そんなに三喜雄が喉を気にしているのか、すぐに理解してくれた。


「ドマスのCMの歌の人ですよね? 今はどんな感じですか?」


 書くものを用意してくれたので、痛みは無いけれど声が嗄れてしまうと記した。症状を正確に言葉にするのは難しいが、文章にするのはますます難しい。

 三喜雄の鼻と喉を見た医師は、まず鼻うがいをするように言う。洗面台の前に連れて行かれた三喜雄は、学生時代に一度経験しているので、ちょっと懐かしくなる。大学3回生の秋、コンクールが終わり祖父を天国に見送った後、疲れが出たのか風邪を拗らせたのだ。

 量を加減しながら鼻から入れた生理食塩水が、鼻腔を通り喉に落ちてきて、口の中に流れ出してくる。口を開けて呼吸をしながら、だらだらと水が落ちるのに任せた。本来うっすら塩辛いはずなのだが、何だか嫌な味がするなと思ったら、洗面ボウルに落ちた水がどす黒かった。三喜雄は驚いて、危うく鼻で息を吸ってしまうところだった。


「やっぱりかなり煙吸っちゃいましたね? 鼻うがいだけでも、だいぶすっきりしますよ」


 医師は、三喜雄の背後から洗面ボウルを覗きこんで言った。通りで、いつまでも焦げ臭さが無くならないわけだ。

 左右の鼻に水を通して、黒いものが出てこなくなったら、鼻から内視鏡を入れて声帯を診てもらった。特に異常は無かったが、声が出辛いからといって無理に出すと、負担がかかるので気をつけるよう言われた。


「やっぱりきれいで立派な声帯ですねぇ、明日また来て声の様子を聞かせてくださいね」


 医師は三喜雄の声帯の写真を見ながら、何やら惚れ惚れとしたような口調である。彼の後ろに立つ看護師が、笑いを堪えていた。

 三喜雄はひと安心して、看護師に連れられ病室に戻った。後で、うがい薬とトローチを処方して持ってきてくれるようだ。頭がぼんやりすることもないので、ベッドに座り、瀧が置いていったクリアファイルを手に取った。

 さっき医師に「ドマスのCMの歌の人」と言われたことが、今になってじわじわと胸に押し寄せて来る感じがする。三喜雄に打診されている舞台は、昨年までなら考えられないようなバラエティに富んだ内容ばかりだ。

 クリアファイルには、昨夜受ける方向で返事をした「カルミナ・ブラーナ」を合わせて、来年3月までの4件のオファーに関する資料が入っていた。声優の語りが付くオペラのガラ・コンサートや、仕事帰りのクラシックファン向けに、遅い時間から始まる歌曲のサロンは、企画そのものが面白い。

 一番目を引いたのは、北海道の母校からのオファーだった。オープンキャンパスの際にミニコンサートを開催するらしく、他に出演が決まっている演奏家たちが、ちょっとマニアックだ。個性的な卒業生が多いとアピールしたいのだろうか。しかも三喜雄には、受験を考える高校生向けのトークショーへの参加依頼も来ていた。

 どの仕事も、わくわくさせられるものばかりだ。ドマスとフォーゲルベッカー様々である。ただ、オープンキャンパスは夏休み中なので本番まで2ヶ月しか時間が無く、あまり練ったプログラムは持っていけないだろう。まさか、喉が治っていないなんてことはないと思うが。

 恐る恐るハミングしてみた。引っかかる感じは無い。鼻の奥にこびりついていた焦げ臭さが消えただけでも、息の通りが良くなった気がする。少し口を開き、息を流してみると、いつも通りの音が鳴った。風邪気味で話す声が駄目でも、歌えることはままあるので、それならいいと、祈るような気持ちになる。


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