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6月 20

 次に三喜雄が目覚めると、壁に掛かった時計は13時を回っていた。看護師が来て、モニターをチェックしてから酸素マスクを外してくれた。顔の下半分の開放感が半端なかった。


「声が出ないかもしれないと聞きました、食事をしてから耳鼻咽喉科に行きましょう」


 はい、と答えたつもりが、すかっと空気漏れの音がした。看護師は無理に声を出さないように言う。


「ゆっくり喉を潤しながら、食べてくださいね」


 すぐに食事が運ばれてきた。出汁の匂いがすると、空腹感を覚えた。朝から水一杯しか口にしていないと、三喜雄はようやく気づく。

 入院した経験の無い三喜雄は、病院の食事が噂通り不味いのか、変な期待をする。しかし幸いにして、少し薄味というだけで、柔らかく炊かれた根菜や焼いた魚の味は悪くなかった。おかげで、完食することができた。

 連絡をしておくべき場所があることを思い出したので、食器を片づけにきた看護師に、鞄があるのかどうかを筆談で訊いた。


「はい、これですね」


 ベッドの下の籠に、ぱんぱんに膨れた三喜雄のビジネスバッグが、脱がされ畳まれた服と一緒に安置されていた。三喜雄の左腕にはまだ点滴が刺さり、手の指も怪我をしているので、看護師が鞄を開けてくれる。少し焦げ臭いのを感じ、ぞわりと背筋を這った恐怖感を無理やり押し込めた。

 コードが刺さったままのスマートフォンが、楽譜の間に挟まってなかなか出てきてくれないので、結局鞄の中をひっくり返す羽目になる。財布や定期入れまで出てきたのを見て、看護師は感心したような声になった。


「よくスマホとお財布、持ち出されましたね」


 自分でもそう思う。メゾン・ミューズの事務所に行く予定がなければ、楽譜まで持ち出そうと閃かなかったかもしれない。


「朝から出かけるつもりで、前の夜から用意してたまんまを持って出たんです」


 ゆっくり話すと、辛うじて言葉になった。看護師もそれに気づき、微笑する。


「貴重品をお持ちになるだけで、安心感が違うと思います……あ、電話されるなら、長話はいけませんよ」

「はい、ありがとうございます」

「耳鼻科の先生のところには、3時に行きますね」


 たぶん6時を過ぎるけれど、瀧が着替えを持ってくると話していたことも、看護師は教えてくれた。病院の人たちも瀧も、みんなが自分に親切なので、三喜雄は涙ぐみそうになる。

 まず、小学校に電話をかけた。タイミングよく笹森に繋いでもらえたので、明日の出勤は難しいということと、来週以降しばらくは、左手を怪我してピアノが十分弾けないことを伝える。


「大きな火事だったみたいだね、大怪我しなくてほんとよかった……明日は何とかなるし、ピアノは片山くんの弾きやすいようにしてくれて問題無いよ」


 その言葉に感謝しつつ、三喜雄は笹森に礼を述べた。テンポを落として話せば、かすかす感がましになるようだ。

 おそらく父も母も勤務中なので、2人に委細をメールをしておくことにする。命に別状が無いことを強調して、すぐに退院できると思う、と最後につけ足す。

 その時三喜雄は初めて、これから何処で生活するのだろうという疑問にぶち当たった。上の階まで放水していたが、部屋は燃えてしまったのだろうか。室内が無事でも、外壁や床が損傷するなどして、普通に暮らすことができない状況になってしまったということは十分あり得る。

 三喜雄は階下で火事が起きた際に、どんなことが必要なのか、ネットで検索してみる。余程のことが無ければ、マンションで階下の火が上に燃え広がるケースは少ないという。消火の水濡れでの損害は、火災保険で賄えるようだ。ただ、住めない状態になりしばらくホテルを使うなどした場合も、宿泊費は補填してはもらえない。

 そんなことをしている間に、看護師が迎えにきた。ちょうど点滴が終わったので、三喜雄は完全に拘束から自由になった。


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