三喜雄が軽く首を横に振ると、カレンバウアーは話を続けた。
「朝早くから隣のマンションが火事で、大騒ぎだったと教えてくれたんですが、その社員の住所が確か、片山さんの家に近かったと思い当たって……嫌な予感がしました」
すぐにカレンバウアーはメゾン・ミューズに連絡した。三喜雄が電話に全く出ないので、瀧が急遽現場を訪れた。火は消し止められていたが、まだ周囲は騒然としており、救急搬送された住人が複数いたとわかった。その中に三喜雄がいると瀧が確認したのが、朝の9時半だったという。
どうもカレンバウアーは、昼休みを利用してここまで来てくれたようだ。心配をかけたことが申し訳なくて、涙が出そうになる。もう少しスマートに避難できたのではないかと、今になって三喜雄は思った。
「泣かないでください、あなたは何も悪くないんですから……若いヴァイオリニストを助けたのでしたね、立派です」
カレンバウアーはハンカチを出して、三喜雄の左の目尻にそっと当てる。
「……怖かったですね」
そう、とても怖かった。煙の中で死ぬかもしれないという絶望混じりの強い恐怖と、こんなところで倒れる訳にはいかない、絶対に逢坂と一緒に助かってみせるという、ほとんど怒りに近い決意。三喜雄の脚を動かしていたのは、生存本能のようなものだったかもしれなかった。
非常階段の途中で消防隊員に抱き止められてからのことは、あまり覚えていない。一酸化炭素のせいで、既に意識が朦朧としていたのだろう。
その時、三喜雄は大切で残酷な事実を思い出した。思わず身体がびくりと震えたので、三喜雄の右の目許を拭いていたカレンバウアーが、どうしました、と表情を引き締める。
三喜雄は何でもない、とアピールするために軽く首を横に振ったが、脈拍数が上がったのだろう、電子音のテンポがラルゴからモデラートに跳ね上がった。三喜雄の中指から繋がれたモニターを見て、カレンバウアーが不審な顔になる。
「何か気になることがあるんですか?」
彼はバインダーとボールペンを三喜雄に差し出した。
「私は日本語があまり読めないので、瀧さんに読んでもらいますね」
話すのにほぼ不自由の無いこのドイツ人が、読めないとは意外だったが、瀧に知られるのはまずいような気がした。三喜雄は心を決めて、カレンバウアーが差し出したボールペンを手に取り、言葉を選びながら書く。
『Ich habe keine Stimme, das liegt an dem Rauch(煙を吸ったせいで、声が出ません)』
カレンバウアーは、あ、と短く声を立てた。そして三喜雄を覗きこむ。
「……たぶん一時的なものでしょう、今朝避難中にそうなったんですね?」
カレンバウアーの声は、落ち着いていた。三喜雄は頷き、一時的だろうと言われたにもかかわらず、一気に不安に襲われる。すると今度は勢いよく、涙が目から溢れた。
「大丈夫、マスクを外したらすぐに喉を診てもらいましょう」
三喜雄はまた涙を優しくハンカチで拭かれる。そうされていると、少しだけ気が休まる感じがした。
「片山さんは私たちが思っていたよりずっと強い、でも全部独りで抱えてしまう人かもしれないですね」
カレンバウアーはまるで子どもにするように、親指の腹で三喜雄の左の眉の上を撫でた。そして、バインダーの一番上の紙を外し、四つ折りにしてジャケットの内ポケットに入れる。
「教えてくれてありがとう、今あなたが瀧さんに知られたくない気持ちはわかります……耳鼻科的な処置をすればすぐに治ると思いますから、さっきの先生に私から伝えておきます」
部屋の扉がノックされて、瀧が戻ってきた。彼女は三喜雄が涙目になっていることにすぐに気づいたが、カレンバウアーはさらりとごまかした。
「避難していた時の恐怖を思い出したそうです、メンタルのケアが少し必要かもしれないですね」
瀧は、そうですね、と応じた。
「ちょっと慣れない仕事が続いて片山さんもお疲れの様子でしたから、しばらく取材は断って、ゆっくりできるようにしましょう」
自覚としては疲れている訳でもなかったが、帰国してからずっと独りで考えて、決断し動いてきたからか、周りが気遣ってくれることが素直に嬉しい。話せない状態の三喜雄は、2人に胸の内で礼を言い、泣いて熱くなった瞼をそっと閉じた。