聞いたことのある声が、近いところで聞こえる。メゾン・ミューズの瀧と、カレンバウアーのようだ。それを縫うように、小さな電子音が、ゆったりとしたラルゴで聴こえてくる。三喜雄は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。壁も天井も白い、見知らぬ部屋。
何かが口許をがっちり覆っている違和感に、意識が向く。鼻の奥に焦げ臭さを感じ、マンションが火事になったことを思い出した。全身に小さな震えが走ったが、非常階段を降りていた時の嫌な息苦しさは無かった。頭の中も、随分すっきりしている。
三喜雄は深呼吸しながら、そっと顔を横に動かした。やはりそこには、瀧とカレンバウアーがいて、深刻な顔で小声で話し合っている。俺大丈夫です、と2人に伝えたいのに、酸素マスクがそれを阻んだ。
三喜雄が目を覚ましたことに先に気づいたのは、カレンバウアーだった。
「片山さん……!」
カレンバウアーは身体を屈めて三喜雄を覗きこむ。その茶色い瞳がとても心配そうなので、申し訳なかった。瀧が慌てて部屋の扉を開け、外にいる誰かに声を掛ける。
すぐにその場に入ってきたのは、中年の医師と、彼より少し若い看護師だった。
「片山さん、わかりますね? ここは病院です、軽度の一酸化炭素中毒になってらしたので、治療中です」
三喜雄は頷く。大げさなことになってしまったと思う。左手の薬指と小指には、固く包帯が巻かれていた。
「指は捻挫してました、骨折はしていないからしばらく動かさなければすぐ治りますよ」
医師の説明は明瞭だった。本当に助かったのだと、三喜雄は心から安堵する。
いくつか訊きたいことがあった。三喜雄が首を動かすと、看護師がバインダーに挟んだ紙とボールペンを差し出してくれた。カレンバウアーが素早く背中に手を入れ、三喜雄の上半身をゆっくりと、少しだけ起こす。左手にはモニターがつけられ、点滴も入っているので、カレンバウアーがバインダーを持ってくれた。
三喜雄は右手にボールペンをゆっくり持つ。あの時ふわふわしていた感触も、普通に戻っていた。
『となりの逢坂さんは大丈夫ですか?』
三喜雄が書くのを見ていた医師は、はい、と微笑した。
「院内にいます、ご両親が来ていますよ」
よかった。三喜雄は小さく息を吐く。
医師によると、2人の他にも数人がこの病院に運ばれたらしい。火元の部屋の周辺に住む何人かに一酸化炭素中毒の疑いがあり、様子を見るために入院するようだ。三喜雄と逢坂も、その中に含まれる。
三喜雄は瀧のほうを見た。彼女は軽く頷く。
「今は何も考えずに休んでください……昨夜話していたことについては、一応持ってきたので、その気になったら目を通してください」
枕元の小さな台の上に、クリアファイルが置かれていた。また瀧は、三喜雄の勤務先と札幌の実家に、火事に巻き込まれたことを連絡したと話した。
メゾン・ミューズに登録した際に、三喜雄は実家や勤務先の学校法人の住所を、緊急連絡先として提出していたのだが、こんな形で早速使われるとは思いもしなかった。
『ありがとうございます、お世話かけます』
三喜雄は瀧に向けて、書いた。瀧は微笑する。
「私たちは登録しているアーティストを守るためにも存在するんですよ、事務所とはそういうものです……だから、いろいろ1人で気を揉まないようにしてくださいね」
医師と看護師は、このまま落ち着けば酸素マスクはすぐ外せるので、その後昼食にしようと言って出て行った。バインダーとボールペンは、筆談のために置いていってくれた。後で、両親と職場にはあらためて電話しようと三喜雄は考えた。
瀧は事務所に報告するために、席を外した。病室にカレンバウアーと2人になった三喜雄は、どうして彼がここにいるのか、疑問になる。
三喜雄の思いを読んだかのように、椅子を引いたカレンバウアーはゆっくり話した。
「片山さんの住まいのすぐ横のマンションに、フォーゲルベッカーの社員が暮らしています」
三喜雄は彼のほうに首を傾けた。彼の手が、包帯が巻かれた三喜雄の指に軽く触れる。
「痛みますか?」