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6月 17

 彼女は明るい声を真剣なものに豹変させて、首から垂らしていたマフラータオルを外し、三喜雄の首に引っ掛けた。


「汗臭かったらごめんなさい、無いよりましだと思うので」

「……ありがとう」


 三喜雄は赤いタオルを痛む左手で握り、鼻から下に巻く。汗どころか、柔軟剤の甘い香りがした。この場に似つかわしくなくて、こわばっていた頬の筋肉が微かに緩む。

 2人の女性木管楽器奏者は、先に行きます、と言って階段を降り始める。三喜雄も逢坂を抱え直し、彼女に声をかけた。三喜雄の渡した濡れタオルを口に当て続けているのは、そうすることで命が繋がると思っているからだろう。


「もう大丈夫だ、できるだけ下に行くよ」


 階段を確認しながら、1歩ずつ進む。安心したせいか、少し足許がふわふわする。手すりを握るのが辛いが、左手の痛みにも慣れてきたようで、あまりずきずきしなくなった。

 3階の踊り場を過ぎたようだと認識した時に、複数の男性の声が下から響いた。


「大丈夫ですか! すぐに行きます!」

「動けないなら無理しないで!」


 ばらばらと足音が駆け上がってくる。三喜雄はどんどん重くなる逢坂の身体を、力を振り絞って支えた。


「逢坂さん、助かったよ」

「……はい」


 オレンジの服を着た消防隊員が、2人見えた。すぐに彼らは三喜雄たちの傍まで来て、まず逢坂を三喜雄から受け取る。逢坂が羽織っていたグレーのジャケットは、彼女には大きかったので、消防隊員が彼女を受け取ろうとした時に左肩が落ちた。三喜雄は消防隊員に声をかけようとした。


「上着のポケットに、彼女のスマホと」


 逢坂を抱いた消防隊員が、三喜雄のほうを見た。しかし三喜雄は、自分の喉の異変に衝撃を受ける。

 声が、出ない。

 それでも口許を覆っていたタオルを引き下げて、掠れる声で、逢坂の財布とスマートフォンがジャケットに入っていることを必死で伝えた。もう1人の消防隊員は、三喜雄の右側から素早く身体を支えてくれた。


「わかりますか? 怪我は?」

「あ、左手……の指をもしかしたら……」


 三喜雄はもたもた話した。声も出ないし、何となく上手く口が動かない。すると消防隊員は、すぐに誰かに向かって話す。


「非常階段2階と3階の間で20代から30代の男性と女性を確保、救急車いけますか? 男性が左手指に違和感、2人ともCO中毒の疑いあり」


 その声に、三喜雄の意識がふわりと飛びそうになる。なるほど、一酸化炭素。結構煙を吸ったから、ありえるな。三喜雄は他人事のように考えながら、頼もしい消防隊員に半分以上体重を預けて、残りの階段をぐるぐる回って降りた。

 地上に辿り着くと、逢坂は三喜雄のジャケットを上半身にかけられ、仰向けで担架に乗せられていた。傍らの救急隊員が、ヴァイオリンケースを抱いている。彼女が運ばれる先に、救急車がバックドアを開けて待機しているのを見て、三喜雄は心からほっとした。

 消防隊員に、そっとその場に座らされる。左肩の重い鞄を下ろすと、上半身が反動で揺れた。ちらっと視界に入った空は、やはり雲に覆われていたが、さっきよりはだいぶ明るい。

 ああ、助かった。でもこれじゃあ、メゾン・ミューズに10時に行くのは無理そうだな。瀧さんに連絡しないと……。

 鞄の中のスマートフォンを探そうとしたが、うまくファスナーが開けられない。片山さん、と複数の声に呼びかけられ、三喜雄ははい、と答えたつもりだったが、自分の聴覚でも自分の声が拾えない。

 がちゃがちゃ音がする。背後から脇と、前から膝を抱えられた。いち、に、さん、という掛け声と同時に身体が浮く。三喜雄の意識は白濁し、もう何も考えられなくなってしまった。


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