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6月 16

 他の部屋を確認する余裕は、もう無かった。2人で煙に咳き込みながらエレベーターホールに着いたが、エレベーターはもう止まっていた。

 三喜雄は腹に力を入れ、声が震えないように逢坂に話しかけた。


「階段行くよ、たぶんこれ以上危ないところは無いから、しっかり歩いて」


 逢坂は濡れタオルに顔を埋めたまま、小さく頷く。突き当たった場所にある非常用出口の扉は、鍵のプラスチックカバーが壊されていた。隣のパーカッショニストかもしれない。この階の住人で、先にここから逃げた人がいることに、三喜雄は少し勇気づけられる。

 重い扉を押すと、朝のまだ冷えている風が頬と髪をなぶった。視界の下のほうは消防車の赤色灯に埋め尽くされ、サイレンと水の音、そして人の怒号が耳をつんざいた。三喜雄は怯む気持ちを払うように逢坂の細い肩を抱き直し、左手で手摺りを掴んで非常階段に踏み出す。逢坂ももたもたと脚を動かし、螺旋状の階段を2人でゆっくり降りた。

 ひとつ下の5階の踊り場で、逢坂がよろめいた。螺旋階段に目が回ったのか、三喜雄の足許もふらつき、彼女を支えきれない。逢坂の腕からヴァイオリンケースがずるりと下がり、咄嗟に三喜雄は左手でそれを止めた。いくらケースに入っていても、階段から転げ落ちたら、繊細な弦楽器は無事では済まないだろう。

 その時、左手の薬指と小指が冷たく硬いものに拘束された。ケースについているアクリルキーホルダーのリングに、すっぽり入ってしまったらしい。同時に逢坂が寄りかかってきて、ケースがこちらに押しつけられ、三喜雄の2本の指は、不自然な方向に押し曲げられた。激痛が脳天を突き抜ける。


「……っ!」


 三喜雄はこれまで経験したことの無い痛みに、思わず息を詰めた。心臓の音が耳の中でがんがん鳴り、眩暈が酷くなる。


「大丈夫ですかっ!」


 その時、女の声が下から響いた。煙で姿がよく見えないが、彼女はさらに下の4階の非常扉から出てきたようである。三喜雄は左手の痛みを堪えて、身体の力が抜けつつある逢坂の肩を引きずり上げた。


「大丈夫です、そっちは大事無いですか」

「部屋はたぶん水浸しです……あっ、行きますね」


 階段を上がる足音がばらばらと近づく。どうも2人いるようだ。やっと姿が見えてくると、どちらの女性も楽器を所持している。三喜雄より若いが、比較的落ち着いているので学生ではなさそうだ。まだ助かったとは断言できない状況にもかかわらず、三喜雄はやはり安心した。

 声をかけてきたのは、フルートの横長のケースをたすき掛けにして持つ人らしい。彼女と一緒に来た女性が背負う四角いバッグは、小田亮太が持っているものと似ているので、おそらくクラリネットかオーボエだろう。そんなことがまだ考えられる自分に、ほっとしてしまう三喜雄である。


「ありがとう、ヴァイオリンを持ってやってくれますか」


 2人は足許もしっかりしていたので、三喜雄は楽器を託すことにした。キーホルダーのリングから指を抜くときも、痛みで叫びそうになったが我慢した。

 ヴァイオリンケースを慎重に抱いたフルーティストは、逢坂の顔を覗きこんだ。


「意識あります?」

「半分無いかも……私は彼女とゆっくり行くから、下まで行ったら消防の人に助けを求めてほしいです」

「了解です、気をつけてくださいね」


 その時、クラリネットかオーボエを背負った女性が、三喜雄の顔を見て、あっ、と言った。


「バリトンの片山三喜雄さん?」

「え? はい、片山です」

「わぁ、一緒のマンションにお住まいだったんだ……もう喋らないで、喉やられます」


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