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6月 15

 枕元のコンセントに繋いだままだったスマートフォンを、コードごと引き抜く。そしてそのまま鞄に押し込んだ。


「楽譜……」


 はっとして、三喜雄は本棚に駆け寄る。もし全て焼けてしまったらと思うと、こめかみと背筋がざわざわした。札幌の実家に保管している楽譜のほうが多いとはいえ、ここにも大切なものがある。

 大学の卒業演奏会と、ドイツでのコンクール、そしてドマスのCM撮りに使った「冬の旅」、オペラデビューの時にあちらで買って、この間も使った「魔笛」のヴォイススコア、昨年末に共演したソリストと学生たちと撮った写真が挟まっている、ヴェルディの「レクイエム」。「カルミナ・ブラーナ」のヴォイススコアはサイズが少し大きいので、すぐに見つかった。その他も思いつく限り掴み出して、心臓をばくばくさせながら、鞄がぱんぱんになるまで詰め込んだ。

 ばしん! と何かがベランダの窓を叩いた。びくりとなってそちらを振り返ると、煙幕を突き破って水が飛んできている。消防車からの放水だ。何やら部屋の温度が上がった感じがして、三喜雄は一気に混乱した。ここにいると、本当に危ない。

 習慣のように下駄箱の上に置かれた鍵を手にして、玄関の扉を開けた。ベルが止まった共用廊下にも静かに煙が充満し、視界が悪いことに軽く絶望する。濡れタオルを当てるのが遅かったらしく、鼻を突く臭いと煙に咽せながら、三喜雄は隣の部屋のドアを拳で叩いた。


「逢坂さん! 大丈夫ですか! いないですか?」


 さっきベランダで声をかけてから10分も経っていないはずだが、逃げていてくれたらいいと思った。しかし扉の内側から、泣き声のようなものが微かに聞こえる。


「逢坂さん、開けて! 一緒に逃げよう!」


 目の痛みに耐えながら三喜雄が叫ぶと、内側からがちゃがちゃと鍵を開ける音がした。三喜雄はすぐにドアを開けた。


「片山さん、もう無理、私ここで死ぬ……」


 涙で顔をどろどろにした逢坂は、いつもきちんとまとめている髪を肩の上にばらつかせ、寝間着らしき薄いワンピース姿で、上り框にへたりこんでいた。彼女の足元には、ヴァイオリンのケースと財布、それにスマートフォンが無造作に置かれている。

 三喜雄は逢坂の部屋の暑さに怯んだ。やはりこの真下の、迷惑ピアニストの部屋が火元なのだ。三喜雄の部屋より、ここのほうが一刻を争う状態だった。


「落ち着いて、まだ逃げられるから」


 半分は自分に言い聞かせていた。それにしても、逢坂の恰好が、見た目もさることながら逃げるにも危なっかしい。とにかく彼女にスニーカーを履かせて、ヴァイオリンのケースを抱かせた。


「30秒待って、これ口に当てて」


 三喜雄は濡れタオルを逢坂に握らせ、廊下に出るなりへなへなと脚を折る彼女に言い聞かせる。そして再度自分の部屋に戻り、昨夜脱いで鴨居に掛けていたチャコールグレーのスーツを、焦りながらハンガーごと引っ掴んだ。

 三喜雄は足を半ば縺れさせてスニーカーで廊下に飛び出し、女子大生を立ち上がらせる。


「これ穿いて、危ないから」


 逢坂は三喜雄の肩に手を置き、泣きじゃくりながら、言われるままにズボンに裸の足を順番に入れた。丈が長いので裾を折り、ジャケットのポケットに彼女の財布とスマホを入れ、そのままそれを彼女に羽織らせる。

 三喜雄は自分の鞄を左肩に掛けて、右腕に逢坂をヴァイオリンケースごと抱いた。彼女の小さな身体は、恐怖と混乱に細かく震えている。煙と臭いにまかれて、死ぬかもしれないという恐怖に気が遠くなりそうだったが、何とか彼女と一緒に助からなくてはいけないという強い気持ちが、三喜雄の胸に湧いた。


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