昨年テノールソロを歌ったのは塚山天音で、横響の練習ホールに現れた三喜雄を見て驚いた。体調管理ができない上に、他人にリハを任せる酒井の非常識さに、塚山は露骨に不快感を示した。三喜雄も酒井の身勝手に腹が立ったものの、リハにソリストがいないと皆やりにくいし、「第九」のソロを歌ったことが無いので、勉強がてら代役を引き受けたのだった。
しかし今思うと、あれが今年の三喜雄への第九の依頼のきっかけになったような気がしている。
片山さんいい声だね。塚山さんも素敵だし、ソリストに若い歌手も来てほしい。だって最近酒井さん、やる気無いじゃん。確かに、歌に出てるよねぇ。挨拶もろくに返してくれないしさぁ。片山さん、ちゃんと顔を見て笑って挨拶してくれたわよ、私たちみたいな素人にも。
あの日、休憩中にそんな声が、合唱団から聞こえてきたのだ。横響のメンバーのあいだでも酒井の評判がいまひとつだということも、三喜雄は小田亮太からちらっと聞いていた。
師の国見が、一番弟子の行状についてどう思っているのか、聞いたことは無い。酒井の評判が落ちていることは知っていてもおかしくないが、酒井ももう国見のところに顔を出していないのかもしれなかった。
三喜雄が国見に師事し始めた頃、既に酒井は日本の声楽界で有名な大先輩だった。国見にとっても自慢の弟子で、酒井が門下生の発表会を観に来て、声をかけてきてくれた時は面倒見の良さそうないい人だと思った。
しかし酒井は、自分や自分が懇意にしている歌手のコンサートに、三喜雄やその他の国見門下の音大生を、無報酬でパシらせた。演奏を無料で聴くことができるからと言い、会場準備や受付などに駆り出したのである。
やることがいろいろあり、結局演奏がほとんど聴けなかったり、酒井自身が会場に現れず、何を手伝えばいいのかわからなかったりしたこともあった。授業で顔を合わせる塚山や他の歌い手に、ある日三喜雄がそのことをつい愚痴ると、手伝いには少額でも謝礼が出て、コンサートを聴いていい場合は、開演までに手伝いが終わるのが普通だと皆から言われた。
更に、とあるテノール歌手のコンサートの際に、三喜雄たちに用意されていた手伝いの謝礼を、酒井が着服している疑惑まで出たことには、たまげた。酒井は預かっていたのを渡し忘れていたと弁明したが、三喜雄の驚きと不信感は怒りに転じた。自分より若い国見門下生たちは、酒井の声楽界隈への影響力を恐れていたので、コネや伝手などどうでも良かった三喜雄が、ある日酒井の手伝い依頼を面と向かって突っぱねた。そして、彼のいい加減で横暴な振る舞いを、国見や大学院の先生方に暴露した。
その後酒井が、師やその他の重鎮歌手たちから、若手へのパワハラまがいの行為に関して注意を受けたと噂になった。三喜雄は酒井からの報復を覚悟していたが、ドイツへの留学を決めたため、一旦くだらないしがらみから逃れることに成功した。
帰国してからは、昨年の第九のオケ合わせを押しつけられたくらいだが、三喜雄はもちろん、他の若い歌手たちも、要注意人物として酒井を避けているようだ(おそらく塚山は、共演NGに指定している)。酒井本人はパワハラどころか、後輩たちによかれと思ってやっている可能性が高いから、厄介である。
ビールのせいでぼんやりしかけていた意識がふとクリアになり、三喜雄は楽しくない思索を中断した。テンションが下がることを考えるのはやめよう。空いた缶を持って立ち上がり、流しで中をすすいだ。明日は10時に事務所なので、寝る用意を始めることにした。