しかし共演者は、三喜雄にはもったいないくらい魅力的である。オーケストラは歴史ある一流で、指揮者はヨーロッパで活躍していて、日本に逆輸入する形で一気に話題になった人だった。ソプラノソロは、11月にモーツァルトのミサ曲でも共演する予定の、美しい声の人だ。テノールは、関西出身で経験豊富な、人気の高いベテラン。合唱は連盟全体でオーディションをおこない選ばれた、精鋭らしい。
三喜雄は手早く返信を打ち込む。出演料はあちらの提示額で構わない。本番当日はOKだが、オケ合わせ等の全員参加のスケジュールをもれなく教えてほしい。
少し迷ったが、正直につけ足した。差し支えが無ければ、酒井さんが何故キャンセルしたのかを聞きたい。自分と酒井さんとは少し繋がりがあるので、禍根が残るようなことは避けたい。
21時を過ぎているにもかかわらず、すぐに瀧から承知の旨の返信が来た。
『この他にもうっすら打診を受けている案件が複数あるので、片山さんのご都合がよければ、明日事務所に寄っていただけませんか?』
うっすら打診とはどういう意味なのかよくわからなかったが、明日は休みなので、事務所行きは瀧に時間を決めてもらうことにする。すぐに追伸が来た。
『合唱連盟にご本人が何と話したかわかりませんが、酒井さんは来年1月末に「トスカ」全幕を抱えており、そのプレコンサートが「カルミナ」の翌日に組まれたので、プレコンを優先したと思われます』
たぶんそれで、間違い無いだろう。あの人のやりそうなことだと、三喜雄は瀧の言葉に納得した。
三喜雄なら、いや普通は、「カルミナ・ブラーナ」に出演して、翌日のコンサートも歌うだろう。コンサートシーズンに本番が2日続くことなど、売れっ子なら普通にあるからだ。どちらかがオペラ全幕なら少し躊躇いそうだが、体力的にきついのなら、先に受けていた仕事を優先するべきである。
『酒井さんは事務所に所属していないせいもあるのか、出たいものばかりを優先的に選ぶ傾向が目立ち始めました。そのため現在、酒井さんの評判はこの界隈で良くありません』
だろうな。三喜雄はやや白けた気持ちで瀧のメールを読み進める。数々のコンクールで賞を受け、オペラでの役付きが定番になっている酒井にはファンも多いが、同業者、特に若い歌手たちから忌避される傾向が、10年前より酷くなっていると思う。とにかく、何かにつけて自分勝手で、それを奔放と取り違えているのだ。
続く瀧の言葉は、なかなか辛辣だった。
『片山さんが不愉快になることを承知で提言しますが、片山さんの評価まで下がる可能性があるので、こういう人とはあまりおつき合いしない方がいいです』
そうですよね。三喜雄は独りで頷いた。不愉快じゃないですよ。俺もこの人には、プチ不愉快な思いをいろいろさせられてますから。
せっかくインタビューも楽しく終わり、新しい依頼にもときめいたのに、ややそこに雑味が混じってしまった。三喜雄はビールの缶を、人差し指の先で軽く叩きながら、少し考える。
横浜市交響楽団の「第九」のソリストも、酒井が長らく務めていた。しかし昨年酒井は、体調を崩してオケ合わせに行けないと言い、代わりに歌ってきてほしいといきなり三喜雄に頼んで(押しつけて)きたのだ。