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6月 11

 明日、木曜日は原則休日である。レッスンの予定も無いので、三喜雄は夕食の後に缶ビールを開けた。瀧とカレンバウアーにインタビューが首尾よく終わったことを報告すると、すぐに双方からねぎらいの返事が来た。

 カレンバウアーはあの後、函館の女性史の研究者にメールでアプローチしたらしく、まさか倉本七重の直系のドイツ人子孫から連絡をもらえるとは思わなかったと、いたく感激されたと教えてくれた。彼がカフェオレ色の瞳を嬉しそうにきらきらさせるのは、見ていて気持ちがいい。だから三喜雄も彼のために、東京の母校のアーカイブに、卒業生について問い合わせてみようと思った。

 2本目のビールを開けた時、新規の依頼が来たというメールが、瀧からやってきた。


「お……」


 呟いた三喜雄は曲目を二度見してしまう。さっきインタビューで、歌いたい合唱曲のソロとして挙げた、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」だったからだ。口に出すと叶うという話は聞いたことがあるが、これは少し早過ぎる気がする。それでも、素直に嬉しくエキサイトした。

 依頼主は、東京都の大学合唱連盟事務局だった。昨年末ソリストを務めたヴェルディ「レクイエム」は、北海道の大学合唱連盟の記念演奏会だったが、三喜雄はおばちゃんのみならず、大学生からも人気があるらしい。

 本番が12月なので、ソリスト依頼がやや遅い。瀧が述べている理由を読むと、21時を過ぎて彼女が連絡してきたのも当たり前だった。緊急事態で、先方は返事を急いでいるのだ。


『今年の初めに確定していたバリトンが、出演できないといきなり連絡してきたそうです。昨年末、北海道学生合唱連盟の演奏を観た学生さんも多く、元々片山さんもこの演奏会のソリストの候補に挙がっていたので、準備期間の無理を承知でお願いしたいとのことです』


 ソリスト選定の時点で自分の名が出ていたことも含めて、有り難いと三喜雄は思った。全く知らない曲ではないので、練習は今からでも間に合うだろう。難曲だが、自分としても歌ってみたい。

 ただし、と瀧は続けていた。


『事務所で提示している片山さんの最低出演料から2万円マイナスが今回出せる限界で、交通費無しと言っています。判断はお任せしますが、この辺り、熟考ください』


 自分を安売りするなという、メゾン・ミューズの営業の橋本の言葉がちらつく。本番の半年前に、本来出すべき出演料が全額出せないけれど歌ってほしいと頼んでくること自体、やや非常識ではある。

 しかし結論から言えば、構わなかった。依頼者は学生団体だ。2万円少なくても、北海道のコンサートの出演料の2倍だし、都内を移動する交通費など知れている。先方は、三喜雄が断ることも十分覚悟の上で、事務所を通して依頼してきた。何やら天晴れな感じさえする。

 三喜雄は添付されてきた、演奏会の仮フライヤーを拡大した。連盟創設50年の記念演奏会らしい。瀧の言葉から、体調不良などのやむを得ない理由での降板ではなさそうだが、キャンセルしたバリトンは誰だと思って見ると、知っている人間だった。思わず溜め息が出る。

 酒井さかい正憲まさのり。50代後半のベテランだ。同じ大学院のOB、また、国見康平が個人指導を始めた初期からの門下生で、三喜雄の兄弟子にあたる。実は三喜雄は、この人がちょっと苦手なので、後任を引き受けて面倒くさいことにならないか、心配になった。


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