三喜雄は舞台袖から舞台に出る時よりも余程緊張しながら、神楽坂にある音楽関係書籍の出版社のビルに足を踏み入れた。受付で半ばどもりながら用件を伝えると、雑誌編集のフロアに行くようににこやかに指示された。
今日の仕事は、月刊誌のインタビューを受けるというものだった。中学生に教えた後、瀧に連絡してそのまま現場に向かった。公共交通機関で時間通りに移動ができ、仕事先で挨拶と話ができる三喜雄は、メゾン・ミューズと瀧にとって、扱いやすい音楽家である。ただし三喜雄は服装に無頓着なため、インタビューで何枚かは写真を撮られるだろうから、ファストファッションで行かないように、とは言われていた。
アー写の撮影は、昨夜瀧につき添われて済ませたばかりだ。タキシードで堅めにさくっと撮影した後、例のスーツに着替えると、塚山天音のようなファッション雑誌の表紙風ではなく、日常のスナップ写真風を目指すとカメラマンに言われた。これも緊張して、自然な笑顔がなかなか出ない困ったモデルと化した三喜雄だったが、まあ何とか無事に撮り終え、今日の昼休みに2枚の写真を確認した。グレーのスーツの写真は悪くなかったし、何らかの処理をしてくれたのか、古いタキシードのくたびれは微塵も感じられなかった。
カメラマンは雑談をしながら三喜雄の表情を和らげてくれたが、その際に笑い過ぎた写真のデータも送ってくれた。SNSに使えばどうかと提案してくれたので、そうしようと思う。
それで昨夜下ろしたばかりの水色のシャツを、今日も身につけてきた。ネクタイを紫から濃紺に替え、淡いグレーのスラックスを合わせると、すっかりサラリーマンになってしまったが、三喜雄としてはこのコーディネートのほうが気持ちが落ち着く。
指示された小さな会議室に行くと、どちらも女性のインタビュアーとカメラマンに出迎えられた。ドーナツマスターのインタビュー動画を撮影した時のような緩さは無く、名刺の交換をするとすぐに軽い雑談から本題に入り、三喜雄はインタビュアーが用意してきた質問にできるだけ丁寧に答えた。
三喜雄は無名の歌手なので、履歴や受賞歴などから話が始まる。自己紹介をしているようだったが、不思議なもので、話すうちに、自分が若い頃に何を思って歌や楽譜に向き合っていたのか、整理している気持ちになった。
三喜雄が CMやネットの動画で緩くブレイクしつつあり、今をときめくテノールの塚山天音と長らく友人関係にある割には地味だからか、インタビュアーはちょっと拍子抜けしたような雰囲気を醸し出していた。
「たぶん音楽ファンは、片山さんと塚山さんが互いに切磋琢磨しながら歌ってきたという物語を期待していると思うんですけれど」
言われて三喜雄は、厳密に言えばそうではないと答えた。
「塚山は英才教育を受けていて、高校生の頃には既に飛び抜けてました……それに対して私は高校のグリークラブで歌い始めて、今でもしょぼ……平凡な歌い手ですから、そもそも立ち位置が違います」
「これまで歌ってこられたものを見ると、片山さんと塚山さんは、フィールドが少し違うようですね」
「はい、彼はオペラで私は歌曲なので……まあ、こういう分類の仕方もどうかとは思いますが」
これから何を歌いたいかという質問はともかく、聴衆にどんな歌手と受け止められたいかという問いには、答えに困った。
「えっと、そうですね……割と高い頻度で聴衆賞をいただいているのは有り難いと心から思っていますので、ちょっと暇だし片山の歌でも聴きに行くか、とこの先も長く思ってもらえたら、嬉しいかもしれないです」
カメラのシャッター音がした。インタビュアーは笑顔でふむふむと頷く。
三喜雄はついカレンバウアーの名を出してしまいそうになったが、いくら三喜雄が現在フォーゲルベッカー社の「推し」演奏家の1人と周知されつつあるといっても、あまり良くないと思い我慢した。
「応援してくださるかたにがっかりされたくないので、レベルが落ちないよう身体を大事にして、レパートリーは常に微増していこうと考えています」
「珍しい合唱曲のソロや歌曲集を歌いたいものとして挙げてらっしゃいますが、ソロコンサートも企画されますか?」
「いや、シューマンやシューベルトをがっつりバリトンでって、ニーズありますか? 100席くらいの極小ホールでなら……」
正直過ぎる三喜雄の答えに、インタビュアーは素を出したようにからからと笑った。
「ありますあります、せめて300席で」
師の藤巻陽一郎は昨年の札幌でのソロコンサートで、450席のホールを前売り段階でほぼ満席にし、追加公演の話が出た。まあそんな真似は自分には一生無理だと三喜雄は思っている。
「今年は飛躍の年になりそうですか?」
「飛躍とまでは言えなくても、多少知名度が上がって、助演させていただくコンサートに貢献できたらいいなという気持ちはあります……学生時代にアルバイトをしていた会社のCMに使っていただいたのは、ほんとにご縁を感じて嬉しく思っています」
インタビュアーは、三喜雄が学校で小中学生に音楽を教えていることにも興味を示した。教えることは決して嫌いではないので、普段の授業で感じることを話しておく。
「他の教科の時には見せない顔を、音楽の授業中に見せている子がいるようなんですね……そういった、音楽が引き出す子どもの何かを、丁寧に汲み上げていきたいです」
我ながら上手くまとめられたと思ううちに、インタビューは終了した。写真や校正紙は、事務所に送ってくれるという。三喜雄はひとつ大仕事を終えて、心からほっとしながら、気分良く帰途に着いた。