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6月 9

 三喜雄の肩甲骨の間に置かれた大きな手が軽く上下に動き、ねぎらいのようなものが伝わってくる。そういえば7年前も、彼にこんな風にハグされた。驚きと緊張と、カレンバウアーの服を汚してはいけないという思いで固まっていた三喜雄を、あやすようにしてくれた。

 先ほどの紳士服売り場での発言で、カレンバウアーが三喜雄のオペラデビューの夜の会話を、文字通り一字一句覚えていてくれたことがわかった。さっきは恥ずかしいばかりだった三喜雄だが、今頃になってじんわりと嬉しくなってくる。特別目立つ訳でもない日本人のバリトンとのやりとりを、彼はしっかり記憶していてくれた。

 カレンバウアーのスーツから仄かに匂う爽やかな香りは、あの時のものとは違う。しかし三喜雄は、デビューの夜のことをはっきり思い出すことができた。あの時も今日も、彼は失礼な自分を許してくれた。7年前は三喜雄のほうが、ただただ非礼な態度を取ったと思うが、今日はどうしても、過度な施しを受けることへの不快感を伝えたかったのだった。彼はその意図を汲んでくれた。

 混んだ車内は、皆満員電車の苦痛に耐えているからかやけに静かで、他人の背中に囲まれて軽く抱き合う形になっている三喜雄たちを見ている人はいない。三喜雄がそっと視線を上げると、カレンバウアーがこちらを見ていたので、目が合ってどきっとしてしまう。


「あの、カレンバウアーさん」


 ほとんど囁き声になった三喜雄に、カレンバウアーは優しい笑みを返してきた。


「はい、しんどいですか?」

「いえ、大丈夫です……いつもありがとうございます、俺頑張ります」


 カレンバウアーは少し目を細める。


「頑張り過ぎないようにしてください、これまでより注目を集める立場になると……楽しいことばかりじゃなくなるかもしれません」


 三喜雄は彼の目を見つめた。本当に彼の言う通りで、浮かれているとは思わないが、ふらふらと自分がぶれてはいけない。


「これから何があっても冷静に、自分の歌を歌い続けてください……そのことが片山さんを守って、高みに引き上げてくれます」

「……はい」


 それはつまり、自分の歌を信じるということだろう。似たようなことをもっと若い頃に、三喜雄は師たちからも聞かされたことがある。もしかすると、わかったようでいて、よく理解できていなかったかもしれない。だからこそ今、音楽の師ではないけれど信頼に値する人から言われると、それが唯一の真実であるように思えた。

 電車は渋谷を過ぎると、少しだけすし詰め状態が緩和した。カレンバウアーは三喜雄の背中から腕を解き、やっと窓の方を向いて吊り革に手を伸ばすことができた。三喜雄も荷物を手に提げ、彼に並ぶ。デパートの紙袋についた皺を、無駄とは思ったが伸ばしてみた。

 それを見ていたカレンバウアーが、話しかけてくる。


「片山さん」

「はい」

「あなたのご機嫌を金銭で取るような真似はなるべくしないつもりですけれど、お金以外でも何か困ったことがあれば、一人で抱えこまずに相談してください」


 三喜雄は左に立つカレンバウアーを見た。彼はやはり、優しく微笑している。どうして、こんなに良くしてくれるのだろうか。


「あの……フォーゲルベッカーは、応援する音楽家を、いつも……これだけ面倒を見るんですか?」


 カレンバウアーは2度瞬いて、そうですねぇ、と微苦笑した。


「片山さんに個人的にしている分は、私のポケットマネーなので別物ですよ……今後コンサートのスポンサーとか、宣伝とかでお手伝いしますが、そういうのが通常の応援、でしょうか」


 ポケットマネーというカレンバウアーの言葉に、三喜雄の困惑が深まる。いや、この人俺のことやっぱり好きなのかな……なんちゃって……。

 電車が目黒に着くと、カレンバウアーは三喜雄におやすみなさい、と言い、降車の波に紛れていった。三喜雄はおやすみなさい、と慌てて返し、人混みからひとつ抜け出した彼の頭を見送った。胸の奥のほうが、何かぽかぽかする感じがした。



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