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6月 8

 必然的に三喜雄がカレンバウアーのお供をしなくてはならず、デパートの前で瀧と別れた後、駅に向かう。


「カレンバウアーさん、タクシー使われますか? 今の時間、電車ほんとに混みますよ」


 三喜雄は言ったが、カレンバウアーはどうして、と言わんばかりだった。


「気を遣わないでください、普段も山手線を使って通勤してます」

「車で送り迎え、とかじゃないんですか?」


 軽く驚いた三喜雄の問いに、カレンバウアーはまさか、と笑った。


「勤務中の移動は車のことが多いです、でも会社の車が朝晩自宅まで来るのは、私が嫌です」


 フォーゲルベッカー日本は、上層部が意外と庶民的らしい。カレンバウアーの話は嘘ではないようで、新宿駅構内が広過ぎるために未だにあまりよくわかっていない三喜雄は、気がつくと彼に先導されていた。カレンバウアーはちゃんとICカードも持っていて、JRの改札にスマートにかざす。


「片山さん、どの辺りに乗りますか?」

「あ、どこでもいいです……」


 人混みの中で、三喜雄はカレンバウアーについていくことだけに集中した。普段の仕事はもう少し早く終わり、歌の用事がある時は今頃歌っている真最中なので、こんなに人の多いプラットフォームは久しぶりである。

 乗車口に並ぶとすぐに、わちゃくちゃした中で電車の到着のアナウンスが流れた。


「駅前で何か食べてから乗ったほうが良かったですね」


 カレンバウアーは苦笑を三喜雄に向けた。ベルリンも人口の多い都市だが、こんな通勤ラッシュは無いだろう。東京の退勤時間帯は道路も混むので、確かに電車のほうが早く移動できるのだが、会社のトップが乗るものではない。

 電車が滑り込んできて、沢山の人間が吐き出される。それが落ち着くと、三喜雄は前に並ぶ人たちがもそもそと進むのについて行きながら、鞄を肩掛けにし、ガーメントバッグと紙袋を守るべく胸に抱いた。

 電車の中は、空調が湿度の高さについて行けないようだった。じめっと暑く、いろいろな匂いが籠っている。なるべく人に密着せずに済む位置取りに迷う三喜雄の右腕を、カレンバウアーは軽く引っ張った。


「片山さん、こっち」


 カレンバウアーに素早く導かれたのは、列車の繋ぎ目の貫通扉の前だった。すぐに周囲が、疲れた顔の人々で埋まる。

 三喜雄は奥に押し込まれる形で、右腕に扉にくっつけて、左側をカレンバウアーに守られるような形になった。


「あっ、すみませ……」


 言い終わらないうちに、一歩奥へお詰めくださいという非情なアナウンスが入り、文字通り車内はすし詰めになった。荷物を抱いた三喜雄の腕の中で、紙袋がくしゃっと音を立てた。服だから中身に大事無いのだが、せっかくの買い物なのにと残念な気分になる。

 ふと三喜雄は、カレンバウアーの身体がやけに近いことに気づいた。この状況なのでそれは仕方なかったが、電車が揺れる度に足を少しずつずらして、困ったように三喜雄の前に立ち位置を変えてくる。三喜雄が首を伸ばしてカレンバウアーの背後を見ると、彼の背中に誰かの固そうなビジネスバッグが当たっていた。バッグの持ち主も、自分のところに引き寄せたくてもできないくらい、身動きが取れないのだろう。


「鞄の角がね、脇腹に食い込んでて」


 カレンバウアーは少し三喜雄に顔を寄せ、小声で言った。三喜雄が彼のために左肩を引き、スペースを作ったその時、強めに電車が揺れ、カレンバウアーが上半身を三喜雄の方に傾けた。


「あっ、私の腕とか肩に掴まってください」


 三喜雄は職業柄、下半身の安定感には自信があるのでそう言う。吊り革に手を伸ばしても届かないと判断したのだろう、すぐにカレンバウアーは、ありがとう、と応じた。

 身長的にカレンバウアーが自分の肩に手を置くだろうと予想していた三喜雄は、次の瞬間、固まってしまった。彼は右腕を伸ばしてきて、そっと三喜雄の上半身を囲んだのだ。

 ガーメントバッグと紙袋を抱いたまま、三喜雄は息を詰めた。いやまあ、これでも支えにはなるけれど……。嫌な訳ではないが、どんな顔をしたらいいのかわからず、三喜雄は紙袋の中に視線を落とす。


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