「もしかしたら役に立つことがあるかもしれません、黒も一枚持っておくといいです」
微笑して言うカレンバウアーに、それでも最低限のことは伝えておかなくてはいけないと思う。三喜雄は心を鬼にし、腹の低い場所に力を入れた。
「理由も無いのに高価なものをいただく訳にはいかないです、これは受け取らせていただきますけれど、以降はご遠慮ください」
場が一瞬にして冷え、瀧があ然としたのがわかった。おとなしい無名の歌手が、「太客」とも言える会社役員に対し、こんな礼を欠いた発言をするとは思わなかっただろう。
三喜雄はカレンバウアーを怒らせることを覚悟していた。くれてやると言うのだから、媚びを見せながら礼を言い受け取るのも、気に入ってもらうための処世術なのだろう。しかしこの間も、お祝い名目で高い肉とワインをご馳走になったばかりなのに、むやみに恵んでもらう根拠が無い。例えば三喜雄が女で、カレンバウアーがこの見返りに、自分と寝ろと言うつもりだというならともかく……今でこそそんなことは許されなくなったが、三喜雄が留学していた頃には、特定の男性演出家やプロデューサーが気に入った女性演奏家に対して、そういった圧力をかけているという噂を時々耳にした。
カレンバウアーはカフェオレ色の瞳を真っ直ぐに三喜雄に向けていたが、怒っている様子は無かった。やがて目を細めて、ふっ、と可笑しそうに吐息をつく。
「この人にこうして、いきなり噛みつかれるのは、私初めてじゃないんですよ」
固唾を飲む店員たちと、緊張感を表情に浮かべる瀧に向かって、カレンバウアーは言った。
「ドイツで片山さんがオペラデビューした時に、7年前でしたか、楽屋に花を持って行ったんです……ドイツ語が上手いんだねと褒めたつもりだったんですが、おまえたちに馬鹿にされたくないから努力したんだよって言いたげな返事をされました」
あっ。三喜雄はカレンバウアーの昔話を聞いて、心当たりにぶわっと顔が熱くなったのを自覚した。あの時は終演後の高揚感のせいで、逆にピリピリして感情が抑制できなかったのだ。
彼は三喜雄をちらっと見てから続ける。
「これは私が良くなかったんですけれど……見かけに似合わず気が強いなって独り言まで彼にちゃんと通じてましてね、睨まれました」
瀧が、緊張した顔を崩してくすっと笑った。
「……意外な一面を片山さんはお持ちのようですね」
無駄に尖ったヤンキーみたいな過去の一場面を暴露されて、三喜雄は恥ずかしさのあまり真っ赤になる。ああもう、精算も終わってるから俺帰っていいよな? 胸の中で叫んでいると、カレンバウアーが三喜雄に言った。
「わかりました、これからは気をつけます……片山さんの考えは正しいです、モノを買い与えるのがあなたに相応しい応援じゃないし、あなたのプライドを傷つけたことも謝ります」
こんな言い方をされて、三喜雄は立つ瀬が無い。別の恥ずかしさに頬の熱さが引かないが、すぐに謝った。
「そんな大層なプライドは持ち合わせていません、7年前も先ほども生意気な口をきいてすみませんでした」
「あなたが謝ることはないですよ」
カレンバウアーはあくまでも優しく、7年前と同様、微かに楽しそうに見えた。その時ふと三喜雄は、少しからかわれているのではないかと思った。常に反応を試されている。
三喜雄は紙袋を持ち直し、カレンバウアーに礼を述べた。あの時、同じ反省をした覚えがあるが、まず人の好意は素直に受けよう。
「ありがとうございます、大切に着ます」
「きっと黒も似合いますよ」
カレンバウアーの言葉に、やや張り詰めていた空気が和らいだ。三喜雄は2人の店員からも、いろいろ試してコーディネートの幅を広げろと激励された。彼らに礼を言い、三喜雄は売り場を辞した。
瀧はコインパーキングに車を停めているらしく、このまま直帰すると言った。
「片山さんごめんなさい、方向逆だからたぶん山手線で帰るほうが早いと思います……カレンバウアーさんはどちらへ?」
瀧はカレンバウアーを送ろうと考えたらしい。三喜雄はともかく、カレンバウアーは一企業のCOOなのに、会社から迎えも来ないのかとちらっと思った。
「私も家に帰ります、目黒です」
カレンバウアーの答えに、瀧は申し訳無さそうに眉をハの字にした。
「すみません、片山さんと同じ方向ですね」
「気にしないでください、電車で帰りますよ」
マジかよ、と三喜雄は口にしそうになった。こんな時間に山手線に乗るなんて、庶民の三喜雄でも嫌なのに。