瀧は銀縁の眼鏡の奥の目を細めて、苦笑した。おそらく4、5歳上で、家庭を持つ瀧だが、仕事も早くしっかりしていて、何となくお姉さんっぽいと三喜雄は感じている。
瀧はこんな仕事をしているだけあり、筋金入りのクラシックファンだ。三喜雄のお師匠たちこと、日本の名バリトンの称号を得ている藤巻陽一郎はもちろん、国見康平まで知っているのはかなりマニアックである。
カレンバウアーは微笑して、三喜雄のマネージャーに訊く。
「売り出すのが難しいですか?」
「いえ、顔出しをあまりしない控えめな演奏家が好きなファンは多いと思うんですが……ちょっともったいないです、若いし声に個性があるので」
自分評を聞くのは心苦しいので、三喜雄は2人に勝手に語らせておくことにして、シャツとネクタイを吟味する。
濃淡の紫のネクタイは上品で美しく、意外にも様々な色のシャツに合うと三喜雄は知り、感心した。
「水色系に紫のネクタイが、片山さんのお気に召していただけそうかなと思いました」
女性店員がジャケットの上に置き直したのは、北海道の春の空のような淡い水色のシャツだった。
「織り柄が密かに入ってるのがポイントです、ネクタイに柄があっても邪魔しません……ノーネクタイでも何気にお洒落です」
三喜雄は第一印象で、これはいいと感じた。学校で何らかのセレモニーがあると、男性教員はスーツ着用を命じられるが、そんな時に他の手持ちのスーツにも合わせられる。
「はい、いいですね、この組み合わせ」
「そうですか、ちょっと鏡の前で合わせてみましょう」
三喜雄は試着室の前に連れて行かれる。店員がカーテンを引き大きな姿見が見えるようにしたのを見て、高級服売り場は試着室までデラックスなんだなと驚いた。
広げられたシャツを首の下に当てがい、右肩からネクタイをかけられると、それだけでも自分の顔が明るくなった感じがした。左側に当てがわれたジャケットのグレーが、明るさを少し締める。若い頃のブラームスの歌曲のイメージが、三喜雄の脳内に湧いた。
背後から、カレンバウアーの声がした。
「片山さん、それが気に入りましたか?」
三喜雄は素直に、はい、と答える。瀧が店員たちに断って、スマートフォンのカメラを三喜雄に向けた。
「カメラマンとスタイリストに送りますね、背景やヘアメイクのヒントにしてもらいます」
ヘアメイク? カシャッという軽い音を3回聞いてから、三喜雄は瀧に尋ねた。
「髪もいじられるんですか?」
「そうですね、まずそのままってことは無いでしょう」
あっさりと答える瀧に店員は軽く笑い、三喜雄を励ますように言う。
「イケメンにしていただいてください、話題性のあるかたがスーツのスナップを出すと、我々の売り上げに直結しますから」
「歌うだけが片山さんの持つ、経済を回す手段じゃないんですよ」
瀧は当然のように話す。なるほどと思いつつ、三喜雄は自分の歌だけでなく、自分の姿にも商品価値が多少あるらしいという事実を知らされて、戸惑う。
勧められた別のシャツとネクタイも次々と合わせてみたが、最初の組み合わせが一番良かった。三喜雄の服選びを微笑ましく見ていたカレンバウアーも、最初のが印象に残ったと言うので、その2点を購入することにした。
支払いのためにカードを渡してしばらく待っていると、女性店員が紙袋を手に戻ってきた。カードに続いて彼女から恭しく手渡された紙袋が、随分大きいような気がする。
三喜雄がつい袋の中を覗き込むと、包みが2つ入っている。店員は、三喜雄が口を開く前に説明した。
「リボンのシールをつけさせていただいているほうが、カレンバウアー様から片山様へのプレゼントとして承ったものです」
「あ、はい、……えっ⁉」
三喜雄は袋の中を再度見てから、にこにこしている店員の顔に視線を戻した。
「最初に見ていただいた黒いシャツとネクタイです」
「ええっ、あれ、ですか!」
カレンバウアーに服をプレゼントされる理由も無いし、こともあろうに、あのチンピラコーディネートとは。三喜雄が軽く騒いでいるので、カレンバウアーと瀧がこちらにやってきた。
「あっ、カレンバウアーさん、これ……」
三喜雄は背の高いドイツ人に近づきその顔を見上げたが、言葉が続かなかった。こんなことされたら困ります、このシャツは着こなせません。いろいろ言いたいことはあるが、何を口にしても彼に対して失礼だと気づく。
「えーっと……」