瀧
三喜雄がスマートフォンを見ると、瀧から「井野貞に18時には行きます」というメッセージが来ていた。慌てて、了解しましたと返信する。
「それで? ああ、この組み合わせは素敵ですね」
カレンバウアーはチンピラコーディネートを見て、明るく言った。
「片山さんがオペラ主体で歌う人なら、これが凄くいいと私も思います」
プッチーニのオペラなどでは、プリモバリトンは悪役も多いから、カレンバウアーはそんな風に言ったらしかった。しかし三喜雄は、最後にざまぁされる悪役を歌いたいと、今のところは希望していない。カレンバウアーはそんな三喜雄の気持ちを察したのか、言った。
「紫色のネクタイは片山さんに似合います、シャツがもう少し柔らかくてもいいでしょうか」
女性店員は、ふむふむと頷き、シャツの並ぶ棚に向かう。
「確かに紫いいですね、ブランドにこだわらずに見てみましょう」
男性店員もそう言って、他の紫色のネクタイを見繕い始めた。
「片山さんの希望は無いですか?」
カレンバウアーに訊かれたが、サラリーマンのようなおとなしいコーディネートが基本的に好きな三喜雄は、お任せしますと答えた。
ふと思い出したことがあり、三喜雄は店員たちが服を選んでいる間に、カレンバウアーに声をかける。
「あの、お祖母様……
三喜雄の話に、カレンバウアーははっとした顔になる。
「それには、何が書いてあるんですか?」
「北海道の戦中戦後の女性史を研究している人のブログなんですが、いかの塩辛とかの水産加工物を作ってる会社の経営者の娘で、7人きょうだいの末っ子だと書いていました」
カレンバウアーは目を見開いて、晴れやかな表情になった。
「ああ、きょうだいの数は6人だったように記憶しますが、たぶんそれです……家の裏が魚の工場だったと聞いたことがあります、函館は海に近いのでしたね」
「はい、お父さんは地元の名士だったようですよ」
「育ちは良かったと思います、祖父がお菓子を作り売っている人と知って、親近感を抱いたらしいのですが、納得しました」
確かに倉本七重はご令嬢だったが、戦後の傷がまだ癒えない時代に、遥か遠くの東京の大学で学び、単身外国に留学に行くというのだから、かなり肝の座った女性だったに違いない。
倉本七重は大学卒業後、すぐに西ドイツに渡った。優秀な歌い手だったのだろう、本場で様々なものを吸収し、短い期間ではあったものの、稀有な日本人ソプラノとして足跡を残した。
三喜雄が目にした情報をざっと伝えると、カレンバウアーは感動を隠さない顔になった。彼は祖母について情報を求めているようだが、日本語で書かれたブログなので、探し当てられなかったのかもしれない。
「祖母のことを調査している人がいるなんて、嬉しいですね」
「カレンバウアー家に嫁いだ後の七重さんの情報を提供したら、その研究者も嬉しいと思います」
三喜雄の言葉に、カレンバウアーは心底驚いた顔になる。
「そんなことができますか?」
「ブログの通信欄からメッセージを送れば、たぶん繋がることはできますよ」
ブログのURLを送る約束をカレンバウアーにしていると、2人の店員が、ご覧くださいと声をかけてきた。タイミングよく、三喜雄のマネージャーである瀧も到着する。
「片山さん、カレンバウアーさん、お疲れさまです……随分楽しそうですね」
「すみません瀧さん、こんなことにまでつき合わせて」
三喜雄は瀧にも頭を下げた。こんな世話のかかる歌手も、そうそういないだろうと思う。
「いえいえ、明日明後日にはカメラマンに連絡を取ろうと思ってたので、ちょうど良かったですよ」
瀧は本当に、何も気にしていないように言う。彼女はテーブルに並べられた、ベテラン店員たちの渾身のコーディネートを見て、わぁ、と楽しげに声をひっくり返した。
「素敵ですね、片山さんを天音さんに負けないイケメン歌手として売り出せます」
それを聞いた三喜雄は、小さく抵抗する。
「いや、そこは望んでないです……」
「片山さんは自己顕示欲が無さすぎるというか、やっぱりお師匠たちと似てるのかなぁ」