言われていることが、わかるようなわからないような。三喜雄は首を傾げた。
「それは、その……普段からちゃんとやれ、と」
「決してきみは普段サボってない、でも厳しい本番でないと、聴衆賞ハンターになってくれないだろう?」
そうなのだろうか。三喜雄はもやもやするものを覚えた。そういえば、この間カレンバウアーとも似た話をしたと思い出す。
国見は続けた。
「今日もそうだ、年末ヴェルディをあれだけ歌えたのに、どうしてモーツァルトでつっかえるんだと言いたい」
「……すみません」
「ヴェルディも相当苦労してたけど、本番とても良かったのは、やっぱり地元の大きなホールで大編成ってプレッシャーがあったからかな?」
問われても、わからないので返すことができない。三喜雄にしてみれば、これまで乗り越えてきたコンクールや厳しい本番と、普段の自分の違いがわからない。周囲から自分が本番オバケ、つまりやたらと本番でよく歌うと言われていることは知っているが、緊張感や高揚感が何らかの影響を及ぼしている、としか考えようが無かった。
国見は困惑する弟子に、優しく言った。
「事務所に登録して仕事をもらうだけの力は、もう片山くんに備わってるんだよ……ただ、コンスタントに歌って聴衆に求められ続けるためには、もうひとつ上を目指すというのか、いつも年末のヴェルディくらい歌いたいところだね」
三喜雄は困惑を深めた。おそらくそれは、三喜雄が自分で見つけないといけないもので、国見や藤巻からは教えてもらえないのだろう。だが苦し紛れに国見に問うてみる。
「結婚したら、それができるようになるんでしょうか?」
国見は思わずといった風に、軽く笑った。
「必ずしも恋愛や結婚じゃないけど、大きな感情のうねりとか、自分で気持ちが制御できなくなるほどの何かが片山くんのリミッターを外して、きみの奥に隠れてるものを定着させてくれる気がする、ってこと」
それを聞いた三喜雄は、怖い、と咄嗟に思った。昨年末のヴェルディはまだ冷静に歌っていたほうだが、コンクールの本選の舞台などでは、自分の理性の蓋が開いて閉まらないような状態になることがある。そんな時は、舞台にいた時間の半分くらいの記憶が曖昧だ。自分の視界に映る、木漏れ日に似たきらきらしているものを歌いながら追いかけていて、曲が終わると夢から覚めたような気分になる。自分が何処にいるのかわからず、拍手やピアニストの声で我に返る時もあった。
国見が聞いてくれそうだったので、三喜雄は言葉を探しながら、少し「いって」しまっている時の自分について説明した。興味深そうに聞いていた国見は、ああ、と、共感を含んだ声を上げる。
「そうだったのか……」
三喜雄は師がいつになく静かで優しい笑みを浮かべたのを、驚いて見つめた。
「えっ、こういうのって……みんなあるんですか?」
「少なくとも僕はあったよ、僕とピアニストしか居ない空間で、淡く光る道が遠くまで続くのが目の前に見えるんだ」
ぽかんとする三喜雄を見て、国見は微笑する。
「怖がらなくていいし、場数を踏んだらコントロールできるというか、本番はほぼ毎回見えるようになるかも」
「先生はそうだったんですね」
弟子の問いに、国見は頷く。
「そんな話をしないだけで、割とみんなあるんじゃないか? 塚山くんに訊いてみたらどうかな」
ほとんど感動していた三喜雄は、そういう理性が飛ぶような状態をコントロールできるようになったのは、奥さんの存在があったからなのかと師に尋ねたかったが、レッスンの時間があまり残っていなかったので、我慢した。
気分が上がったからか、最後の20分はよく歌えた気がした。国見に礼を言い、ガーメントバッグを手にすると、彼は三喜雄の左手を不思議そうに見た。
「今からドレスリハなの?」
「あ、いえ、このスーツに会うネクタイとシャツを今から選びに……」
国見はそう、と疑問に思う顔になった。秘密にすることもないので、三喜雄は話す。
「このスーツで、メゾン・ミューズのホームページに載せる写真を撮るんです……手持ちだとちょっとサラリーマンっぽいので」
それはいいね、と国見は口許を緩める。
「今載ってるのは、片山くんが僕のところに初めて来た頃の写真だね……顔形は変わってないのに、やっぱり大人になったな」
あの写真を撮ったのは22歳の時だから、既に大人ではあったのだけれど。三喜雄は何となく照れながら、国見の許を辞した。藤巻にも、近いうちに連絡を取ろうと思った。