無邪気な弟子の返事にふっと笑った国見は、少し迷うようなそぶりを見せてから、口を開いた。
「藤巻が引退を考えてるみたいだ」
「え……」
藤巻は昨年秋、還暦コンサートを札幌で開催したばかりだ。シューベルトの「冬の旅」全曲を歌って好評を博し、ライブ録音をCD化しないかと言われている。
藤巻が三喜雄の父と同級生であることを思えば、おかしなことではない。しかし三喜雄は、いつも自分の手本であり目標でもある師の引退の話題は、やはりショックだった。
「ゴールデンウィークに会った時は、そんなことひと言も……」
「僕も初めて聞いたよ、最近決めたんだろう……奥様の具合が一進一退というのも理由にあるかもしれない」
国見の声がしんみりとする。4年前に子宮癌が見つかった藤巻夫人は、ずっと治療を続けていた。
藤巻の妻は会計士で、アマチュアのピアニストだ。夫の音楽活動を陰日向で支えてきた。三喜雄が藤巻の自宅に、自転車を走らせてレッスンに行くと、真冬はいつも温かい飲み物を出してくれた。
三喜雄は帰国してから、地元でアルバイトと教職の勉強を始め、学生時代のように藤巻のところへ月2回通っていた。夫人の姿が見えなくなり、何となく気になって藤巻に問うと、病院にいると教えてくれたのだった。
藤巻自身も、年には勝てないと三喜雄に笑いながら話していた。しかし、もし藤巻が、夫人の看病を舞台から降りる理由のひとつにするのであれば、師に歌から距離を置く決断をさせる夫人の存在に、三喜雄は畏怖のようなものを感じる。確かに藤巻は、2人の子を育て上げてからも夫人と仲睦まじいが、生涯を共にする連れ合いの力とは、そんなに強いのかと思うのだ。
「どうした片山くん、やっぱりショックかな? でも演奏家は誰しも、引き際を見極め受け入れなくちゃいけないものだ」
舞台を去ったのが早かった国見は、何故そうしたのか、詳細を三喜雄に話したことはなかった。もしかすると藤巻以上に、意外な理由かもしれない。興味はあるが、師の胸のうちに土足で踏み込むようなことになると嫌なので、今は訊かない。
「……藤巻先生は奥様と仲が良いから、先生もお辛いと思います……でも奥様のために先生が一線を退くというなら、ちょっと何というか、羨ましいような感じがします」
国見はピアノの椅子から、三喜雄を覗きこんでくる。
「羨ましい? 何が?」
つまらないことを口走ってしまったと、三喜雄はやや後悔したが、国見とはなかなかゆっくり話せないので、説明する。
「いえ、その、そんな大切な伴侶がいらっしゃること自体が羨ましいというか」
笑われるかと思ったが、国見は真面目に応じる。
「そうか、片山くんもそんなことを考えるようになったのか」
「あ、今すぐ結婚したいとかじゃないんですけど、日曜日に高校の後輩の結婚式に出たのもある……かもしれないです」
それは、今までほとんど抱いたことが無かった感情だった。30を過ぎて特別な女性もいない自分は、これからも独りで生きていくのだろうなと考えると、何やらちょっぴり寂しいのだ。
「連れ合いがいるのは悪いことではないよ……ただ、うちみたいに全く同業ってのは、あまりお勧めしない」
言って苦笑する国見の妻はソプラノ歌手だ。今はほとんど舞台には上がらず、国見と同様、大学や自宅で教えている。国見はこんな言い方をするが仲良く連れ添っているので、歌手同士なのに珍しいおしどり夫婦と、密かに業界では言われている。
「片山くんなら音楽家でない人とも、上手くやれると思うけど?」
「出会いが無いですかね……」
「きっとこれからだよ、顔も名前も売れてくるから……でも、お金や知名度だけが目当ての女性も世の中多いぞ、十分気をつけなさい」
大真面目に言う国見が可笑しい。大学院生時代、こんな国見がちょっと怖かったのだが、今は自分のことを、もしかしたら頼りない息子のように思ってくれていると理解している三喜雄である。
「そうか、大切にしたいと思える相手が出てきたら、片山くんはもう一皮剥けるかもしれないね」
「は?」
三喜雄は水筒の蓋を閉めて、思わず師の顔を見た。国見は今日はよく話してくれる。
「これは藤巻とも話してたんだけどね、何というか……片山くんが追いこまれないと発動しないものが、普段から定着したらいいのにと思う」