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5月 13

 音楽事務所に登録することに対する期待と不安を半分ずつ抱えて、三喜雄が田町の自宅マンションに戻ると、管理人室の前に2人の男女が立って話しこんでいた。初老の男性はマンションの管理人だ。腕時計を見ると19時前で、いつも17時過ぎまでしか居ないのに、こんな時間に立ったまま話しているとは、何事だろうか。

 管理人と話す小柄な若い女性を、三喜雄は良く知っていた。隣室に住む芸大生だ。彼女はヴァイオリニストで、確かこの春3回生になった。


「あっ片山さん、こんばんは」


 そのヴァイオリニスト、逢坂おうさか美羽みうは、エントランスに入った三喜雄にすぐ声をかけてきた。隣に暮らす30代の男に特に警戒感も抱かず、同類の先輩だというだけで人懐っこく接してくる様子が、ふわふわした小型犬を連想させる。


「こんばんは、何かあったんですか?」


 三喜雄が尋ねるなり、逢坂は汚いものでも見たような嫌悪感を顔に浮かべた。


「下のピアニストですよ、昨日も夜中の1時に弾き始めたでしょう? 片山さん寝てらっしゃいました?」

「あ……そう言えば変な時間に音がしてましたね」


 三喜雄の部屋の斜め下、つまり逢坂の真下に暮らす男性ピアニストは、このマンションの迷惑住人のうちの1人である。昨夜は三喜雄が風呂から上がった時に微かにピアノの音がして、おいおい、と思いながらベッドに入った。真上に暮らす逢坂には、もっと大きく聴こえただろう。

 いくらマンションが防音の建物でも、モラル無く音を出せば意味が無い。21時に演奏していても、暮らすのが皆音楽家なら、お互い様の側面もあるので、まだ誰も文句は言わないだろう。しかし夜中の1時2時になると話は別だ。周囲が静かだから、音も余計に響く。

 管理人は困ったように三喜雄に言った。


「隣や下の部屋からも苦情が出てましてね、実はもう既に2回、書面で警告してるんですけど」


 三喜雄はその迷惑ピアニストが何者か全く知らなかったが、学生ではないことを管理人は匂わせる。


「マンションのオーナーと一緒に直接お話しするつもりですが、いつ部屋にいるんだか……そもそもお仕事も、今何をなさってるかよくわからないんですよねぇ」

「捕まらないなら、保証人に言わないといけないんですかね」


 三喜雄が言うと、今すぐそうしろと言わんばかりに、逢坂は管理人の顔を見た。マンション管理の仕事も、トラブルの処理が大変だなと三喜雄は思う。


「私の印象ですけど、弾いてらっしゃる曲に、脈絡が無いような気がするんです……作曲してるのでなければ、昼夜逆転して病んでるのかなと思ったりします」


 三喜雄の話に、なるほどねぇ、と管理人は溜め息混じりで言った。逢坂は感心したように、今度は三喜雄を見る。


「片山さん、聴いてるんだ」

「だって、嫌でも耳に入ってくるし」

「聴いてるほうが病みますよ」


 部屋の配置などが関係するのだろうが、三喜雄はそんなに被害を蒙っている自覚が無かった。学生時代も留学先でも、完全防音でない部屋で暮らしていたので、他人が出す音に対して多少寛大かもしれない。


「周辺の部屋から苦情が出ているとご本人にあらためて通達します、本社にも話してますから、くれぐれも直接出向かないでくださいね」


 逢坂は、管理人の言葉が不満そうだった。こんな時間に管理人に掛け合っている辺り、今夜また夜中にピアノの音がしたら、下の部屋に乗りこんでやろうと考えていたのかもしれない。

 管理人と別れて、三喜雄は逢坂とエレベーターに乗った。一応彼女に釘を刺しておく。


「今夜もし夜中に弾き始めたとしても、下の部屋に行ったりしちゃだめだよ」


 逢坂ははぁい、と不満そうに応じた。三喜雄は彼女より10年ちょっと長く生きている人間として、うざいと思われたとしても言うべきだと考えた。


「男に逆襲されたらひとたまりもないぞ、真夜中にしょっちゅう楽器を鳴らすような人物に、話して伝わると思えない」


 逢坂は肩をすくめる。


「……逆恨みして何かしそうですもんね」

「そう、だからもし今夜弾いたら、警察に電話するほうがいいよ」


 三喜雄も東京に出てきて、集合住宅で一人暮らしを始めるまで知らなかったのだが、生活に支障が出るような非常識な音を出す人間は、警察に任せていいらしい。


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