キャバクラかラブホテルのような軽い社名だが、1980年代創業のこの音楽事務所には、国内の著名な演奏家が沢山在籍している。本来なら三喜雄のようなしょぼい歌手など歯牙にもかけない会社の人から、こんな風に言われるとは、人生何が起こるかわからない。三喜雄は腹を括って、橋本の話を聞く。
橋本は営業及び広報担当者だということで、三喜雄に異存が無ければ、これから様々な場所に売り込んでくれるという。日々のスケジュールを調整したり、実際的な交渉に携わったりするマネージャーは、三喜雄の希望を聞いた上で決めると、橋本は言うのだが。
「希望、とは……どういう……?」
三喜雄が返答に困り首を傾げると、橋本は明るく答える。
「男性か女性か、年齢が近いかどうかなどをお尋ねしています、多ければ毎日レベルで連絡を取り合う相手ですので」
「ああ、そういうことですか」
「片山さんがどの程度、私たちにお任せくださるかにもよりますね……その辺りから伺いましょう」
そう訊かれて即答できない自分は、本当に世間知らずの音楽馬鹿だと思う。三喜雄は情けなくなりながら、橋本に尋ねる。
「皆さん何を任せてらっしゃるんですか? 塚山は全部ってこないだ話してたんですけれど」
橋本は三喜雄の話を聞いて、小さく笑った。
「はい、天音さんはスケジュールの管理も出演料の交渉も、仕事が立て込む時の移動手段の調整もこちらに任せてくださっています」
それは、丸投げあるいは甘えと呼ぶのではないのだろうか……想像していたこととはいえ、事務所側から聞かされると、あらためて呆れる。
橋本は楽しそうに説明する。
「天音さんが我々に特に望むのは、テノール歌手塚山天音が、常にスマートでかっこよく見えるように扱ってほしいということです」
「……あいつ、馬鹿と自惚れに磨きをかけてますね」
三喜雄は呆れのあまり、言葉にオブラートがかけられなくなった。本当に、塚山と長く友達をやっている自分が、たまに腹立たしい。
橋本はけらけらと笑った。
「噂通り片山さん面白いですね、でも天音さんのようにセルフイメージが固まっている人は、こちらもマネジメントしやすいです」
噂通りという言葉を含め、どうもよくわからない世界だと思いつつ、三喜雄は現実的な話を切り出す。
「えっと……そういうことの手間賃というのか、手数料は出演費から引くという認識でいいですか?」
「引く、というのは少し違うかもしれません」
橋本にとっては、半分素人の三喜雄の質問などほぼ想定内なのか、彼は滑らかに説明する。
「例えば、片山さんの昨年のお仕事は合唱曲のソリストが多かったようですが、1曲の出演料に20万を提示されたとして」
実際にはそんなにもらったことはないが、三喜雄は黙って聞く。
「片山さんにはその金額をお渡しして、かつ我々が頂戴する分が出るように、我々が頑張るということですね……タレントの芸能事務所ほど世話は焼かない分、演奏家の皆さんへの還元率は高いです」
「……出演料を吊り上げて、今以上に仕事が増えるとは思えないんですが」
三喜雄の言葉に、橋本は眉を上げる。
「片山さんは実力がおありだし、今注目を集め始めていますから、ちゃんと仕事を選び交渉できれば、演奏に見合った対価が得られるはずです」
その代わり、と橋本は続けた。
「昨年末のヴェルディの『レクイエム』のような、アマチュアの音楽団体にほぼボランティアで出演なさるようなことは、なるべく控えていただくほうがよろしいかと」
え、と三喜雄の口から小さな音が出た。あの演奏会は、北海道内の大学の合唱連盟から出演依頼されたものだった。ソリストに北海道出身の歌手を呼ぶ企画が決まり、実行委員会から、テノールは塚山(彼も札幌出身である)、バスは三喜雄に声がかかった。三喜雄は自分が歌って少しでも盛り上がるのならと思い、実質交通費無しで依頼を受けた。
高校のグリークラブで歌を始めた三喜雄は、学生の音楽団体の活動を守りたいと思っている。感染症が蔓延した時、合唱は特に忌避されて活動を制限され、中学や高校ではそのままクラブが消滅してしまった例もあった。それでなくても学校の音楽団体は、少子化の煽りを受けている。若い人の間から歌の火が消えることは食い止めたい。
そう言いたかったが、橋本が何故こんな話をするのかは理解できた。演奏家は自分を安売りしてはいけない、ということなのだ。
言葉が出ず黙りこんでしまった三喜雄に、橋本は取りなすように言う。
「もちろん、絶対出るなと言う権利は、私どもにはありませんので……片山さんのイメージアップにつながるものであれば、出ていただくほうがいい場合もあります」
その言い方には、やや不快感を覚えた。年末、名を売るために札幌のホールで歌ったのではない。良い演奏会にしたいという若者たちの願いや情熱を、後押ししたかっただけだ。