株式会社ドーナツマスターと、コンディトライ・フォーゲルベッカーとのコラボレーションドーナツシリーズの販売が始まった。
長くドマスのキャラクターを務める人気俳優が、シューベルトの「菩提樹」の世界観を思わせる大樹の木陰で、ドーナツ片手に遠くを憂いげに眺めるCMは、すぐに話題になった。バックに流れるのは、もちろん三喜雄の歌である。
モーツァルト「魔笛」のパパゲーノのアリアが使われたCMは、少しポップな映像で、同じ俳優がドーナツの入った箱を持ち、大切な人の家を訪れるというストーリーが作られていた。
新作ドーナツの販売開始と同時に、動画サイトのドマス公式チャンネルでは、三喜雄の歌のフルバージョンと、三喜雄がインタビューを受けた2本の映像が公開された。また、フォーゲルベッカー・ジャパンの公式ホームページにも、これらの映像へのリンクが貼ってあり、再生数がぼちぼち伸びているということだった。
勤務先の児童や生徒から、先生の動画見た! と報告されるのは、嬉しいが気恥ずかしい。CMではなく動画サイトを、子どもたちがこんなに目にしているのかと、ちょっと怖くもなる。ノア・カレンバウアーの話した通り、オンラインの情報の速度はテレビのそれを遥かに上回り、片山三喜雄って何者? とネット上で噂されるようになった。
当然、三喜雄が音楽活動について日頃緩く発信しているSNSのフォロワーも、じわじわと増え始める。学生時代からの友人知人やこれまでの共演者、また直接会ったことは無いが、遠方で活動する同業者くらいとしか繋がっていなかった三喜雄だが、気がつくとフォロワーがフォロー数の3倍になっていた。
ドーナツの発売開始の日に、一応「CMで歌わせてもらっています、よろしく」といった報告と宣伝を上げておいたのだが、その投稿に1万近くのいいねがついた。こんなことはもちろん初めてだ。
少しビビり始めた三喜雄に追い討ちをかけたのは、クラリネッティストの小田亮太が所属する、横浜市交響楽団の公式動画だった。小田が「アップされたから見てくれい♡」とメッセージをくれたので見てみると、映像はあの日の録音風景と、その後の軽いおちゃらけの様子が流れているだけで、字幕以外は特に煽りのある加工もしていないことにはほっとした。
しかし、横響ファンからのコメントのテンションがやけに高かった。このオーケストラは、ほぼどの演奏会でも割引価格で鑑賞できる年間パスを発行していることや、メンバーが少人数で積極的にアンサンブルをすることなどが好評で、耳の肥えたコアなファンが多い。
『片山さんノリいいな、横響向きが過ぎる笑』
『何この逸材、今年の第九のソリストに呼んでくださいプリーズ』
『いい声でドイツ語めちゃ綺麗! マーラーやってほしい。。。』
ドイツ語の歌が入る管弦楽曲をファンが挙げている辺り、ふむふむと思う。それは有り難いし、是非企画して呼んでほしいところだが、顔ばかり売れることに対する困惑が先行する。
CMの放映開始と動画公開1週間で、三喜雄の許には、早くも4件の仕事の打診が来ていた。うち1件は中堅音楽雑誌のインタビューで、どう対応すればいいのかよくわからない。こんな仕事に慣れている塚山天音に尋ねてみると、インタビューを受けるだけでなく、写真を選んだり記事の校正をしたりしなくてはならないというので、ちょっと面倒そうだ。
カレンバウアーから提案されていた、音楽事務所との契約の相談を、時間が合わないことを理由に先延ばしにしていた三喜雄は、危機感から遂に事務所に連絡を取った。フットワークの軽い担当者が、三喜雄の中学校の仕事が終わる時間に合わせて、目白まで来てくれることになった。
駅の構内のカフェで、どきどきしながら待っていると、青いスーツを着た男性がきょろきょろしながら入ってきた。彼はぱっと三喜雄に目を留める。あらかじめ、水色のカットソーを着ている旨を伝えておいたので、ちゃんと伝わったらしい。
「初めまして片山さん、連絡お待ちしておりました……メゾン・ミューズの
「初めまして、片山三喜雄です……今日はありがとうございます」
心許なさが出てしまったが、三喜雄とあまり年齢が変わらない感じの橋本
「ノア・カレンバウアーさんと、天音さん……塚山さんからも片山さんをよろしくと言われています、これから片山さんが演奏に集中できるようお手伝いさせていただきます」