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5月 9

 三喜雄は小声になった。


「カレンバウアーさん、お気持ちは有り難いんですけれど、度々ご馳走になる理由がありませんし、私は見知らぬ女性とお金を使って遊ぶことには……あまり興味がありません」

「……女性?」


 カレンバウアーはきょとんとした。あ、やっぱり間違えてるのか。察した三喜雄は、こみ上げてくる笑いを堪えた。

 日本語がネイティブでない人が、言葉の意味を間違えたからといって笑うのは絶対に良くない。三喜雄もドイツで性的なスラングを知らずに使って、涙が出るほどイタリア人とドイツ人に笑われた時はちょっと辛かった。

 三喜雄が笑わないよう頑張っているのに、カレンバウアーは確認してきた。


「お酒と肉を沢山、の意味ですよね?」


 ちょ、やめて。三喜雄は頬の内側を奥歯で噛む。


「あ、いえ、肉は……この四字熟語の場合は、女性の肉体を指します」


 三喜雄の低い声に、あ、なるほど、とやはり低く応じたカレンバウアーは、右手で口許を覆った。暗めの照明の中でも、彼の耳が赤くなったのがわかった。


「……ならばそういう意味で言ったのではないです、私はそういう遊び場は知らないので」


 訊いてないし、真面目に答えるなよ! 堪えきれなくなり、三喜雄も右手で口を押さえた。

 カレンバウアーは大きな身体をやや縮めながら、恥ずかしそうに、ごめんなさい、と言った。その姿が可愛らしいのも、笑えてしまう。


「すみません、カレンバウアーさんを侮辱するつもりは一切無いんです」


 三喜雄は無駄な言い訳をした。目の前のドイツ人は、微苦笑する。


「大丈夫です、外国語はトライ・アンド・エラーですよ」

「はい、ご立派です……私もドイツでいろいろ間違えました」


 アイスクリームを添えた小さなケーキとコーヒーが来たので、良い具合に笑いが収まった。カレンバウアーは残り少ないワインの中身を2つのグラスにあけて、店員にボトルを下げさせる。

 甘いものが出たせいか、その後の話題も少し緩くなった。カレンバウアーは、父方の祖母が日本人であることを話してくれた。ドイツに留学中に歌手デビューし、活躍し始めた最中に祖父と出逢ったという。


「祖父と結婚したころがピークで、オペラのタイトルロールも歌ったのですが、父を妊娠した時に一線を退きました」


 カレンバウアーは祖母が大好きで、彼女から少し日本語を教えてもらっていたという。


「祖母が一度だけ、私は日本にいたら歌手としても女としても、幸せになれなかったかもしれないと言いました……でも、ドイツに来てから亡くなるまでに、4回しか日本に帰れなかったのは心残りだったようでした」


 どんな歌手だったのだろう。三喜雄はその女性に興味を持った。カレンバウアーが40代前半くらいだとして、その祖母が音楽を学び、ヨーロッパに留学しているならば、世代的に御令嬢だった可能性が高い。


「片山さんと同じ北海道出身で、同じ学校の卒業生ですよ、あ……東京のね」


 昔から、北海道の芸術家志望の優秀な若者は、三喜雄が卒業した大学院の大学を目指した。しかし女性が、戦後10年も経たない頃と思われるが、そんな時代に実家を出て、東京の大学に進学していること自体に驚かされた。


「そうなんですか、たぶん調べたらわかりますね」

「はい、ナナエ・カレンバウアー……ナナエ・クラモトです、函館出身です」


 函館は明治時代から外国人が住んでいた、開かれた気風の土地だ。きっとナナエ・クラモトは、かの地の良家に生まれ、リベラルな教育を受けて育ち、声楽家を志したのだろう。


「片山さん、私の祖母の話は面白いですか?」

「はい、どんな女性で、どんな歌手だったのか興味があります」


 三喜雄の答えが、カレンバウアーは嬉しかったようである。会社の責任者としての、ビジネス向けの微笑ではない表情を見せた。ハンサムだなぁと三喜雄はちらっと思う。


「女性や芸術家の地位が低いのは良くないですが、私は祖母が生まれ育った日本が好きです……街が清潔で、人は皆真面目で優しいです」


 カレンバウアーの日本観は、特別ではなかった。しかし三喜雄は、何となく自分が褒められているような、ちょっといい気分になった。そのせいでもなかっただろうが、デザートとコーヒーもとても美味しかった。



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