上等のステーキとフランスの白ワインの相性がばっちりであることを、味覚と嗅覚を全投入して確かめていた三喜雄は、カレンバウアーの言葉をすぐに理解できなかった。
「……はい?」
「あなたのお友達の塚山天音さんが所属する事務所は信頼できます、私から連絡しておくのでマネジメント契約の話をしてください」
三喜雄はワイングラスをテーブルに置いた。マネジメント契約するということは、あらゆる交渉に煩わされない代わりに、出演料を事務所にピンハネされる、あるいはそれを見越して依頼者に高い料金をふっかける歌手になるということだ。
自分は、そんな条件で歌わせてもらえる価値がある歌手ではない。三喜雄はカレンバウアーの顔を見た。
「そう言っていただけるのは大変光栄ですが、自分の首を絞めることになるので結構です」
「首を絞める? どうしてですか?」
三喜雄は、何が自分にとって不利と感じるのか、カレンバウアーに正直に説明する。彼は三喜雄の話を最後まで黙って聞いていたが、ふうん、と軽く首を揺らした。
「片山さんは、私どもをあまり信用してくださらないということですね?」
三喜雄はそれを聞いて、ええっ、と思わず小さく叫んだ。何でそうなる、日本語通じてなかったのか。
「違います、断じてそういうことじゃないです」
「いや、そうでしょう? 事務所を通してでもあなたに歌ってほしい人がもっと出てくるはずだと、私たちはこれまでの経験から判断したんですが……もちろんあなた自身が頑張らないといけないことですし、推すと言っても私たちができることには限りがあります」
フォーゲルベッカー社は、自分たちの目利きに余程自信があるらしかった。確かにヨーロッパでは、フォーゲルベッカーの後押しでスターへの道を歩んでいる演奏家がちらほらいるのは事実だ。同時にカレンバウアー一族の中からも音楽家が出ているのだから、遺伝子的に音楽的嗅覚に優れているのかもしれない。
その会社でメセナ部門を引っ張ってきたノア・カレンバウアーが、肉とワインを食べさせながら三喜雄にこんな話をするのだから、もっと喜ぶべきなのだろう。何なら塚山に自慢するメッセージを送りつけても良さそうだ。
しかし、真に受けていいのだろうか。言葉が脳内に散らばるばかりで、カレンバウアーにどう返せばいいのかわからない。とはいえ、何か彼を納得させることを言わなくては、不義理に過ぎると思う。少なくとも今回のCMでは、引き立ててもらっているのだから。
「あの……繰り返しますが、カレンバウアーさんにそこまで言っていただくような値打ちが、自分の歌にあるとはどうしても思えません」
肉を食べてワイングラスを空けたカレンバウアーは、困りましたね、と呟いた。三喜雄はボトルを持ち、彼のグラスにワインを注いでやる。
「どうしてそんな考え方をするようになりましたか? 過去のコンクールの講評で傷ついたとか、コンサートで侮辱的な批評を受けたとか」
侮辱的とまでは言わなくても、自分が世の中でどんな歌手だと認識されているかは理解しているつもりだった。ちまちまピアノの前で歌曲を歌う、しょぼいバリトン。
昨年末にソリストとして出演したヴェルディの「レクイエム」は、最もオペラに近い宗教曲と言われ、声量が多くなく、ロマン派のオペラを避けて回っている三喜雄にとってかなりチャレンジだった。終演後、案外良い評価をもらっているのは、自分の努力の成果でもあるだろうが、共演者に助けられた部分が大きい。事実、演奏会直前まで、片山三喜雄には荷が重いだろうという声が多かったのだ。
その話をした上で、つけ足す。
「それに私は大学生以降、コンクールに3回出てますけど、3位に入れたのが1回だけです」
帰国前のコンクールで3位に食い込めたのは、優勝の有力候補の1人が体調を崩し、本選を棄権したからだと三喜雄は思っている。
それも話したが、カレンバウアーはパンをちぎって微笑した。
「知ってます、あとその3回全てで聴衆賞をもらってることもね」
「あ、まあそれは……」