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5月 6

 何にせよ、困惑するには十分だった。一体どんな返事を期待しているのだろうか。


「楽しい返事はできません、たぶん私、今が一番歌人生で目標を見失ってるので」


 はっきり答えると、本当にそうだと実感してしまった。

 高校生の頃は、所属していたグリークラブの皆と一緒に、コンクールや定期演奏会といった目標に向かい走り続けた。大学では夢中で歌ってレパートリーを増やし、大学院で自分が何を歌いたいのかを追求した。留学中、日本では得られない刺激を沢山受けて、プロとして歌っていく決心がついた。

 帰国してすぐに歌う仕事がもらえる訳ではないと覚悟はしていたが、感染症の世界的な拡大は、歌手としての三喜雄のキャリアを躓かせた。三喜雄だけでなく、世界中の演奏家が辛い立場に甘んじた数年間だった。

 しかし、もしコロナ禍が無かったとしても、日本では演奏だけで食べていけないという事実は三喜雄の前に立ちはだかったはずだった。音楽関係者の間の奇妙なしがらみも多く、そういう場所を学生時代から意識的に避けていた三喜雄は、舞台に繋がる「有力な」コネや伝手を持っていなかった。

 カレンバウアーは話さなくなった三喜雄に対し、待つ姿勢を見せた。ワインの瓶を傾け、三喜雄の空いたグラスを満たす。


「日本の音楽家が音楽家らしく生きていけないことは、私も日本に来る前から知っていました……フォーゲルベッカー日本に本社同様メセナ部門があるのは、私たちが日本の音楽界に危機感を持っているからでもあります」


 三喜雄は、楽しくないが忌憚ない意見を口にした。


「この国で力のある人間は音楽だけじゃなく、美術も文学も、日本の伝統芸能さえも守り育てる気がありません……そんなことに金を出すのは馬鹿馬鹿しいと思っていて、出したとしても売名目的のパフォーマンスです……会社は業績が悪化したら、すぐに文化的支援を切り捨てます」


 言葉が尖ったが、日本の現状であり事実だった。カレンバウアーは薄茶色の瞳に、今度は笑いを浮かべた。


「そういう話は歌手の間で出るんですか?」

「学生時代、歌手に限らず友達とたまにしました……今は誰ともしません」

「ああ、今は誰ともしない話を私にしてくれるのは、嬉しいですね」


 馬鹿にされている訳ではないようだが、返事に困る。三喜雄がスープに口をつけたので、カレンバウアーが続けた。


「おっしゃる通りだと思いますよ……でも音楽が好きで聴きたい人は存在するから、あなたたちは彼らのために、自腹を切って演奏するしかない」

「ですから私は、今のままでいいんです……生きていくための手段を歌以外の場所で確保しつつ、私の歌が好きだと言ってくれる人のために、収入を期待せずに歌いたい曲を歌います」


 店員がパンとサラダとメインディッシュを運んできたので、会話が途切れて牛肉の焼ける音と匂いがその場を支配した。


「鉄板にお気をつけください」


 手際良く並べられた食事に、三喜雄は会話の重さを一瞬忘れた。何と食欲をそそる音と香り!

 カレンバウアーが自分の反応を観察していることに気づいたので、三喜雄は緩んでしまった口許を思わず引き締める。しかしカレンバウアーは、すぐに言った。


「美味しそうですね、熱いうちにいただきましょう」


 三喜雄はフォークを右手に持った。留学中、食事に誘われても遠慮しがちだった三喜雄は、きみは声楽家で身体が資本なのだから、食欲に忠実であることを恥じるべきではないと担当教官に諭された。

 以来三喜雄は、美味しそうなものを出された時は遠慮しないことにしているが、初めて一緒に食事をする、しかも自分より年齢も立場も上の人の前でがっつくのはどうなのかという思いもある。

 ステーキは食べやすい大きさにカットされ、ソースがかけられていた。ゆっくりと一切れ口に入れると、肉は1回噛んだだけで気持ちよく切れて、香ばしい玉ねぎのソースに熱い肉汁が絡んだ。うっま、と三喜雄は心の中で叫び、幸福感のうちにもぐもぐと口を動かす。


「美味しいですか?」


 カレンバウアーに訊かれて、少し発音が不明瞭になったが、はい、と答えた。彼は手慣れた様子でフォークを動かし、肉の後にサラダをつついている。


「とにかくフォーゲルベッカーはこれからあなたを全力で推しますから、まずはマネージャーをつけましょう」


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