覚えていたのか、と三喜雄は思った。カレンバウアーは続ける。
「片山さんは立派に本役の穴を埋めた、しかもまだ学生で、あれがデビューだった……賞賛されて然るべきでした、今だから言うけれど、本役のミヒャエルはあんなに歌えなかったと思います」
カレンバウアーの言葉に自尊心がくすぐられたが、本役越えは無いと思う。ミヒャエル・カレンバウアーは良い歌手なので、あのサボり癖を引っ込めたら、きっともっと活躍できるはずだ。
三喜雄がそう言おうか迷う間に、カレンバウアーは言葉を継いだ。
「片山さんはこれから変な遠慮をしないほうがいいですね……つまり何が言いたいかというと、テレビでは駄目でも、インターネット上ではあなたの評価が高まる可能性が大きいということです」
もう一度、そうかなぁ、という疑問が胸に湧いた。まあカレンバウアーが三喜雄をおだてても別にメリットは無いのだから、そう思ってくれていることは素直に有り難いと受け止めることにした。
何にせよ、オペラデビューした夜のことを覚えてくれていた、あるいは思い出してくれたのは、嬉しい。三喜雄にとっては忘れ得ぬ思い出だが、カレンバウアーの記憶の隅に引っかかっていることを、既に諦めていた。これまで多くの音楽家に接しているこの人のほうから、こんな風に言ってもらえるのは光栄なことだ。
スープがテーブルに置かれると、続けてワインがやってきた。高そうな白ワインは2人の目の前で栓が抜かれ、ゆっくりとグラスに注がれる。
「それで、片山さん……今夜はお祝いをするだけでなく、あなたの音楽活動のこれからについて話したいんです」
カレンバウアーは言いながら、さりげなくワインの入ったグラスを取るよう三喜雄に促す。照明のせいで、ワインはやや黄色味を帯びていた。
軽く音を立ててグラスが合わさり、三喜雄は何故か少し警戒しつつ、ワインを口に含んだ。
「……あ、美味しい」
思わず出た言葉に、カレンバウアーはにっこり笑った。ドイツの甘い白ワインは文句無しに幸福感をもたらしてくれるが、そこまでの甘さは無いこのフランスの白ワインは、目が覚めるような感じがある。それでいて、口当たりは良かった。
話を聞こうと三喜雄はグラスをテーブルに置いたが、カレンバウアーはちょっと手を上げ、食事を止めなくてもいいというニュアンスを出した。三喜雄は遠慮なく、スープのスプーンを手に取る。
「私たちが思うのは、日本では音楽家、特にクラシックの演奏家の地位が低くて、一般的にその事実が知られていないのが問題です」
カレンバウアーの言う通りだと三喜雄は思った。
「……私は教育大学で音楽を勉強しました、音楽大学を出たら就職できないと思って、教員になる道は押さえておきたいと考えたからです」
カレンバウアーもスープを口にしてから、頷いた。
「そうですね、音楽をやりたいという気持ちだけでは生活できないですし……先生の採用もあまりありませんね?」
「はい、私は運が良かったと思います」
三喜雄の言葉に、カレンバウアーは少し目を細める。
「それで、片山さんはこれからどうしていきたいと考えてますか?」
三喜雄は、音楽家としての自分の未来に、未だ確たる希望や道筋を持っていない。だから、授業中にいきなり当てられた学生のように口籠もる。
「……今のままでいいと思っています」
「本当に?」
探るような視線を注がれ、三喜雄は微かに警戒した。
「はい、きちんと稼ぐ手段があって、たまにソリストとしてお声がけしてもらって……今回みたいなCMの仕事はとても有り難いし勉強になりますが、宝くじに当たったようなものです」
三喜雄の答えに、今日初めてカレンバウアーは表情を曇らせた。三喜雄は気まずくなるなと思ったが、高校生の頃にぽっと芽を出した子どもっぽい野心や願望は、現実を知ってほぼ枯れている。今更それをほじくり出して、この人の前で披瀝するような恥ずかしい真似はしたくなかった。
「片山さん、せっかく2人で話す時間ができたんだから、もうちょっと何というか、忌憚ない楽しい返事が聞きたいかな」
カレンバウアーは要するに、自分を警戒せずに思うままを語れと言いたいらしい。彼の婉曲表現があまりに見事なので、一瞬何人と話しているのか三喜雄はわからなくなった。