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5月 2

 学校を出た三喜雄は電車に乗ってから、来週1週間は特に用事は無い旨をカレンバウアーに返事した。メールを送信してから、暇な歌手だと思われそうで、勝手にいたたまれなくなる。まあ事実、塚山天音と違って、随時お仕事絶賛募集中の身なのだが。

 ふと寂しいような、虚しいような気持ちに襲われた三喜雄は、車窓からまだ明るい空を見る。自分は現在、想定内の人生を送っているし、歌う仕事がいっぱい詰まっていなくても、教える仕事は安定している。不満は無いはずだった。

 初等科と中等科の双方で授業を持つことになった時、合計の勤務時間数が加入条件を満たしたので、学院で共済保険に入れてもらった。非常勤で社保付きはかなりラッキーだと、国保であくせく働く周りの音楽家を見ていて感じる。小中高全ての教員免許を取ったことも、パソコンの実務的な使い方を覚えたことも、無駄ではなかった。三喜雄は少なくとも一般社会の目から見れば、ぎりぎり「音楽しかできない潰しの効かない人」ではない。

 ただ、ずっとこのままやって行くのかと考えると、ちょっぴり寂しい。もっと歌いたいし、もっといい音楽に触れたい。また、音楽家でなくてもいいので、気持ちを分かち合える人と出会い、もっと語らいたい。

 今月末、高校時代の後輩の結婚式に招待されていて、同じく高校の後輩の伴奏でバラードを1曲歌う予定だ。結婚する後輩のお相手は、大学の部活が一緒だった女性で、伴奏をしてくれる後輩は、10歳年上の同性のパートナーと暮らしている。結婚に興味は無いのに、何処か彼らが羨ましい。彼らが連れ合いと、いつも仲良く過ごせる訳ではないだろうし、独りで好きにできない煩わしさも、多かれ少なかれあるはずなのに。

 三喜雄は田町で山手線を降り、他の駅前より比較的静かな駅周辺を抜けて自宅に向かう。帰国して3年経ち、札幌から再び東京に出てきた時、タイミング良く空き部屋が出た防音のマンションである。駅まで徒歩で10分もかからず、住人のほとんどが裕福な音大・芸大生と単身の職業音楽家で、同類が集まる気楽な空気感があって気に入っている。

 しかし今日は、一生ここで暮らすのだろうかという思いが三喜雄の胸にゆらりと湧いた。師匠の藤巻陽一郎のように、50代になったら北海道に戻ろうか。でも、北海道一の都会の札幌でも、首都圏ほど歌う機会は無いだろう。

 エレベーターを6階で降りて自室のドアを開けた途端、鞄の中でスマートフォンが震えた。三喜雄はドアを閉めて鍵をかけ、靴を脱ぎながら鞄の中を探る。リビングの明かりをつけてスマホを見ると、カレンバウアーからまたメールが来ていた。


『恵比寿のステーキハウスがお勧めだと会社の人たちが教えてくれました。肉が好きでないなら言ってください。他に食べられないものはありますか?』


 そんな店、高級でない訳がない。恵比寿のステーキハウスという字を見て、慎ましやかに暮らす庶民の三喜雄は怯んだ。

 お祝いに、と言っているのだから、おそらくご馳走してくれるつもりなのだろう。三喜雄が知る限り、ドイツ人は格好をつけるためだけに他人に奢るような無駄なことはしないし、デートでも割り勘のカップルが多いが、祝い事などでは盛大に騒いでホストが金を出す。しかし高級ステーキ店でカレンバウアーに奢ってもらうほどの仕事をした訳でもなく、割り勘ならある意味もっと困る。

 どうしよう。三喜雄はリビングで突っ立ったまま、言葉を探す。あまり返事を遅らせるのも、失礼だ。


『食べられないものはありません。しかし、まだドーナツが売れるかどうかわからないので、あまりお気遣いくださらないようお願いいたします』


 三喜雄は手早く打ち込み送信ボタンを押して、溜め息とともに脱力した。寝室に行き着替えていると、牛肉なんて久しぶりだな、と単純に嬉しい気持ちが、ぽんと浮かんだ。豚肉文化で育った三喜雄だが、確かに牛のステーキは美味い。

 大きな会社のトップともなれば、毎日美味いものを食っているのだろうと三喜雄は思う。基本的にグルメでないので羨ましくはないが、とにかく住む世界が違う人だ。話題をきちんと選ばなくてはいけない。

 楽しみなような緊張するような、複雑な気持ちを持て余しつつ、三喜雄は小さなキッチンに立つ。冷蔵庫を開けて、庶民らしく、賞味期限が近いベーコンを何とかしようと考え始めた。


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