ゴールデンウィークの最終日、三喜雄が帰省していた札幌から東京に戻った翌日に、ドーナツマスターはフォーゲルベッカーとのコラボ商品をプレスリリースした。その際CMもロングバージョン2本がお披露目され、三喜雄のスマートフォンには驚きや祝いのメッセージが毎日やってくるようになった。地味にオーディションがおこなわれ歌手が選ばれたという話は、歌い手としての三喜雄の評価に多少良い色をつけそうである。
CMが流れ始めた訳でもないのに、スイーツ好きの間ではあっという間に新しいドーナツが話題になり、販売開始日を待ち望む声がネットで広がっていた。初等科の科目専任講師の控え室では、笹森が顔を合わせるたびに、すげぇな、と声をかけてくる。
「俺オーディションのデモ音源の伴奏手伝ったって暴露していい?」
「はい、もういいですよ……俺もそろそろSNSに上げます」
三喜雄も実のところ、長い時間緘口令に従っていたので、やっと話していいのかとほっとしている。帰省中、家族や友人にも「ちょっと変わった仕事をもらった」としか話せなかったのだ。
「拡散の速度が早過ぎて怖いんですけど」
「ネット社会恐るべしだな……とは言ってもクラシックのプレイヤーなんて、注目度はそれなりなんだろうけどなぁ」
それでも笹森の勧めに従い、校長に早めに連絡しておいてよかったと三喜雄は思う。声だけではあるが、CMに出演することを話すと、一応教職員会議で話しますね、と言われたのだった。
学生時代の友人たちとメッセージを交わすなどしているうちに、やっと肝が据わってきた三喜雄である。帰国するまでは、やったことが無い仕事を見つけたら、迷いなくトライしていた。手痛い失敗もやらかしたが、概して良い経験になった。CMで自分の歌が毎日流れるなんて、願ってもない機会ではないか。この状況を楽しむのだ。
でも、と笹森は呟いた。
「有名になって仕事が増えても、あっさり辞めないでくれよな……片山くんと一緒だと俺もやりやすいし、今子どもたちもいい具合に授業に集中してくれてるし」
はい、と三喜雄は応じる。小学校教員免許を取ったばかりの、教える経験が皆無だった自分を拾ってもらった恩が、この学院にはある。それに三喜雄も、笹森や他の教員を良い同僚だと思っていた。
「仕事が急増することなんて、たぶん無いですよ……小学生の頃って、先生が代わったらちょっとショックですもんね」
「そうなんだよ、割と子どもにはストレスだったりする」
子どもは大人の事情など斟酌しない。本来祝ってやるべき理由であっても、先生辞めちゃうんだ、と唇を尖らせて不満気に言うだろう。
不思議なもので、結婚することや家庭を持つことにあまり興味が無い三喜雄でも、きゃらきゃらと動き回る小学生や、何処か背伸びをして子ども時代から抜け出そうとしている中学生は、無条件に可愛い。接しているだけで、何かと新鮮なのだ。彼ら彼女らの存在が、クラシック音楽という特殊で狭い世界に生きる三喜雄にとって、広い世の中と繋がっていられる術そのものなのだった。
中等部ですべての授業を終えた三喜雄は、教員控え室に戻り、見慣れないアドレスからスマートフォンにメールの着信があることに気づいた。差出人の名を見て、軽くどきっとする。フォーゲルベッカーのCOO、ノア・カレンバウアーだった。
翻訳ソフトか何かを使っているのか、カレンバウアーからの日本語のメールの文面はやや堅かったが、ドーナツマスターのプレスリリースも済んだので、お祝いに食事に行こうと誘ってきていた。一番に感じたのは、困惑だった。
「……2人で行くのかな」
スマートフォンの画面を見ながら、三喜雄はひとりごちた。傍で帰る用意をしていた英語の非常勤講師が、片山先生どうかしました? と訊いてきたので、いえ、と返す。
舞台関係のリハーサルや観たいコンサート、それに自分のレッスンが無ければ、基本的に平日の夜は暇な三喜雄である。感染症対策の自粛ムードもかなり拭われていると言っても、職場の飲み会は学期末や年度末以外にはほとんどおこなわれず、定期的に一緒に飲む友人知人も東京にはあまりいない。たまに映画を観に行くか、家で譜読みをしたり本を読んだり、児童や生徒のためにプリントを作ったりして過ごすのが日常だった。