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4月 3

「これはいいです、チョコレート美味しいし生地もシュネーバル感あるし……ちょっと厚いかな?」


 苅谷が笑いながら応じる。


「あくまでもドーナツですからね」

「そのこと忘れてしまいますね」


 三喜雄の言葉を聞いて、深田は満足そうだった。

 ザッハトルテも、見かけは真っ黒なチョコレートドーナツだが、生地とトッピングのチョコレートの間にあんずのジャムがちゃんと挟まっていた。ビターめのチョコレートと酸っぱいジャムの対比が絶妙である。思わず三喜雄は、ふぉ、と変な声を上げてしまった。


「美味しい、生クリームつかないんですか?」


 すると場がざわめいたので、三喜雄はドーナツを飲み下して、ドマスの人々が口々に話すのを聞いた。


「ほら、やっぱり生クリーム要るよ」

「もう価格上げられないし、持ち帰りもしにくいよね」

「イートインオンリーでオプショントッピングにしたら?」


 自分の発言が現場に波紋を起こしてしまったらしく、三喜雄は深田に助けを求めた。深田も苦笑を浮かべる。


「フォーゲルベッカーは、生クリームの有無は任せるって言ってくれてるんだけど」


 せっかく用意してくれていたので、三喜雄はコーヒーをひと口飲んだ。


「個人的にはあったほうが、ザッハトルテ感が上がるかなと……」

「まあ、あくまでもドーナツなんだけど……ただ何というか、全員外国人のキャストで『蝶々夫人』を観てるような感じがするからさ、生クリームはつけたいなって俺も思う」


 深田は口走ってから、カメラに向かって、これカット! と慌てて言った。苅谷は笑い、三喜雄は少しどきっとした。深田がこれらの新商品に対し、微妙に複雑な感情を抱いているとわかったからだ。

 きっちり食レポもこなして、三喜雄のインタビューは終わった。スタッフがありがとうございました、と口々に言う中、まずいことを言わなかったかどうかが気になる。

 深田は三喜雄の試食の皿を片づけながら、彼らしい人の良い笑顔になり、言った。


「ありがとう、内輪では良い出来だって言われてるけど、なかなか確信が得られなくて」

「俺はドマスで働いてたから、半分内輪のような気もするけど……変なこと言わなかったかな、俺」


 三喜雄の問いかけに、大丈夫、と深田は応じた。


「何かあったら広報が編集するよ」


 会議室を出ると17時を少し過ぎていたが、深田はまだ仕事があるという。彼をこのまま飲みに誘おうと考えていた三喜雄は、残念に思った。


「それにしても、根本的な疑問なんだけど……この動画、世間のニーズあるの?」


 意外にも深田は、ニッチかもしれないがあるだろうとあっさり答える。


「片やんは密かに人気あるし、今をときめくテノールの塚山天音の友達だし」


 三喜雄はやや複雑な気分になる。塚山は良くも悪くも、タレントとしての自分の価値を理解していて、事務所に所属していることもあり、メディアへの露出も増えている。それに引き摺られることを、手放しで喜ぶほど三喜雄は単純でも目立ちたがりでもない。

 深田は続けた。


「片やんに顔出ししてもらうのは、フォーゲルベッカーの要望でもあるから」

「……え?」

「日本じゃクラシックの演奏家が普通にやって知名度を高めるのは難しいだろ? フォーゲルベッカーは今回のCMで歌う歌手を、そういう部分でバックアップするつもりでいたらしいよ」


 三喜雄はどう反応すればいいかわからない。この間カレンバウアーは、そんなことはひと言も口にしなかった。喜びよりは不安の要素の高いものが、三喜雄の胸の中にもやっと広がる。

 三喜雄の気持ちを知る由もない深田は、無邪気に話す。


「片やんは帰国してすぐにコロナ禍に当たってしまったから、歌う機会をいっぱい失くしたと思うんだ……だからこれはチャンスだって」


 素直にそう受け止められたらいいのだが、そうできない。ドイツから戻り、食べていくためにやや守りに入ってしまった三喜雄には、用意されているらしい新しい舞台が少し怖かった。



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