三喜雄が答えて濱と頷くと、カレンバウアーは微笑する。さっきから、集まっている中で最高の地位にいるこの人が、スタッフや自分たちに気を回して動いているので、少し気の毒になった。
撮影しているカメラに手を振り、三喜雄は練習室の中に入って、防音扉を閉めた。濱はリラックスしている表情だが、目許にぴんと張りつめるものを醸し出している。ガラス越しにミキシングルームを見ると、2人のスタッフがOKを出してくれたので、三喜雄は本番と同じく、譜面台をピアノを背にして立つ位置に置き直した。
少し目を閉じて、開く。それだけで気持ちが締まった。三喜雄のスタンバイを察した濱のピアノが、軽やかだが少し哀愁を帯びた3連符の前奏を鳴らす。三喜雄は身体に息を入れた。
「『門の外の泉の傍に、1本の菩提樹が立っている』」
作り込まず、自然に。三喜雄は楽譜を確認する。
「『僕はその木陰で夢を見た、沢山の甘い夢を』」
大学生の頃、この歌がどうしても思うように歌えなかった。下手くそだなぁと師に何度も言われ、悔しくて泣いた。「冬の旅」は三喜雄くんにはまだ早いという、あの時の藤巻の言葉が、今ならわかる気がする。と言って、今少しくらいましに歌えているという自信は無いけれど。
伴奏が乗せてくれたこともあり、4分の曲を集中して歌うことができた。後奏の最後の音が消えて、ガラスの向こうから手が上がると、三喜雄はもう一度目を閉じた。自分としては割に良く歌えたので、ギャラリーのお気に召してくれたらいいと思った。
「お疲れ、たぶんリテイク無しでいけると思うよ」
濱に言われて、三喜雄はほっとした。
「ありがとうございます、集中できました」
「だよね、お師匠とは違うシューベルトが歌えるようになってきたよね」
だとしたら嬉しいし、
ミキシングルームにいたカレンバウアーは、笑顔を三喜雄に向けた。
「良かったです、全部使えないのがもったいないですね」
するとミキシングのスタッフも、カレンバウアーに同意するように言う。
「会社側の許諾が要るでしょうけど、動画サイトで全曲公開なさったらどうですか? 30秒だけじゃ、ほんともったいないですよ」
「あ、ありがとうございます……」
思わぬ褒め言葉に三喜雄は嬉しくなって、声楽を始めたばかりの頃のようにもじもじしてしまった。濱が背中を突いてきて、にやりと笑う。
「ミスター・カレンバウアーは褒め上手ね、ドイツの本物のメセナを見た気がするわ」
濱の言葉はやや大げさかもしれないが、フォーゲルベッカー社の音楽家への支援は、日本の大企業がイメージアップのためにやっているメセナごっことは、規模と質が違う。
三喜雄がドイツに居た頃に聞いた噂では、フォーゲルベッカー社は「推しアーティスト」を独自に選出して、平均2年のスパンで彼らに対し「推し活」をするらしく、それ以外に若い演奏家のデビューをまめにチェックしている。かつて三喜雄にそうしてくれたように、花を楽屋に入れるのも、活動のひとつだ。三喜雄はドイツから帰国する前に、声楽のコンクールで3位入賞したが、その時も祝いの花が届いた。そしてフォーゲルベッカー社に推されたアーティストは大活躍することも多く、三喜雄とよくつるんでくれたテノール、トマス・シュテルンは、現在ウィーン国立歌劇場で歌っている。
ノア・カレンバウアーはドイツの本社で、メセナ部門を任されていた人物だった。彼からいい演奏だったと直接言ってもらうことは、何げに名誉なことかもしれない。三喜雄には強い上昇志向は無いけれど、カレンバウアーのアドバイスや賞賛にはちょっと感激していた。