カレンバウアーは緑がかった薄茶色の目に、優しい笑みを浮かべる。
「いつか全曲歌えるといいですね、コンサートでもいいし、CDを作るのもいい」
言われて三喜雄は、耳が熱くなったのを感じた。「冬の旅」の全曲演奏は、おそらくドイツ歌曲を歌う多くのバリトン歌手の、大きな目標だろう。
「……私なんかには、たぶん一生無理です」
三喜雄の師である
「そんなことはないでしょう? あなたはまだ30代なんだから……喉を大切にしていれば、70を過ぎても歌えますよ」
カレンバウアーの言葉が、表面上の社交辞令的なものではないことが伝わってきたので、三喜雄の胸の内がぽっと温かくなった。
「はい、ありがとうございます」
カレンバウアーが椅子に落ち着いたのを見計らい、三喜雄は濱に合図を出す。少し間を置き、前奏が始まった。
ミキシングルームと繋がっているというだけで、普通の練習室なのでやや響かないが、歌いにくいというほどではなかった。たった1人の客のために、三喜雄は丁寧に歌った。
3番にあたる部分まで歌うと、濱は間奏のテンポを緩めて、大丈夫かな? と三喜雄に訊いてきた。三喜雄は彼女に頷き、パイプ椅子に座るドイツ人を見た。ネイティブにシューベルトを聴かせる久々の緊張感は、留学中と全く変わらない。
「カレンバウアーさん、お菓子のコマーシャルなので少しだけ……歌の明度を上げました、不自然ですか?」
カレンバウアーは軽く首を傾げた。変な日本語を使ったので、わかりにくかったのかもしれない。三喜雄は言い直す。
「少し明るめに歌いました」
「ああ、そういう意味ですね、うーん」
少し言葉を探したカレンバウアーは、明快に答えた。
「普通に歌ってください、楽譜に書かれた詞と音符を」
「……普通に、ですか」
「はい、今ちょっと考え過ぎみたいに聴こえました……デモの歌はもっと自然で、そのほうがこの歌の悲しみがよく出ていたから」
「わかりました、悲しさは出てもいいんですね?」
三喜雄は緊張しつつ、曲の分析をしているようなやり取りを、やや楽しんでいた。カレンバウアーははい、とはっきり言う。
「もしどうしても商品に合わないということでしたら、使う曲を変えたらいいです……片山さんがこの曲の解釈を変える必要は無いです」
CMに使う曲を変えてしまうとは、随分大胆な意見だった。そんなことになっても歌わせてもらえるのだろうかと、ちらっと考える。
ミキシングルームのスタッフたちは、音量は問題無いと言ってくれたので、あとは本番を待つのみである。
やがてドーナツマスターとフォーゲルベッカーの社員たちが到着して、何やら大げさな雰囲気になったので、濱がやや唖然とした。
「CM作るのって大ごとなんだ、名刺無くなっちゃったわよ」
交換した名刺を確認する濱を見ながら、三喜雄は小さく笑った。
「前回はオーケストラの練習ホールだったから目立たなかったんですけど」
「ああいうとこは席があるけど、今日全員は無理じゃない?」
ミキシングルームには、スタッフの他に3人ほど入れそうだった。入れない人は、三喜雄たちの姿も演奏もわからないところで、待つしか無いようだ。
「えっ、今日もカメラ入れるの?」
「録音開始まで撮らせてください」
そんなやり取りが聞こえてきた。ドマスは本当にメイキングビデオでも作る気なのか、先日同様に小型のビデオカメラを持っている人物がいた。撮影は外注しているのだろうが、どうもドマスと撮影担当との意思疎通があまりできていないらしい。彼らの様子を見て、おっ、と濱が呑気に首を伸ばす。
「ついで映りするって知ってたら、もっとちゃんと化粧してきたのに」
「俺もスーツで来たほうがよかったんですかね?」
密着取材じゃあるまいし。三喜雄は苦笑を禁じ得ない。カレンバウアーはごちゃつく外野の整理を秘書の武藤に任せ、困惑気味に三喜雄と濱に言った。
「ごめんなさい、落ち着かないですね……録音をまず済ませましょう」
「大丈夫ですよ、普通の本番前でもよくあることですから」