録音スタジオは小綺麗な貸し練習室ビルの中の1室で、隣にミキシングルームがあった。約束の時間の15分前に到着し、入れてもらえなかったらどうしようと三喜雄は濱と話していたが、ミキシングルームには既に2人のスタッフと背の高い外国人がおり、何か打ち合わせていた。
三喜雄は濱にこそっと言った。
「あの人がノア・カレンバウアーさんです」
「あらまあ、素敵なイケメン」
そう応じる濱の声は弾んでいた。緊張なんかしてないんだろうなと、三喜雄は苦笑する。
とりあえず挨拶したいので、三喜雄はガラス張りの部屋をそっと覗き込む。するとカレンバウアーは、すぐに気づいて出てきてくれた。
「こんにちは、ピアニストを探してくれたそうですね……手間を取らせました」
少し困ったような顔になるカレンバウアーに、いえ、と三喜雄は被りを振る。そして彼にベテランピアニストを紹介した。
名刺を交換してから、カレンバウアーは濱に微笑する。
「日本を代表する伴奏者の濱さんに弾いていただけるのは大変光栄です、こういうのを『災い転じて福となる』と言うのでしたか?」
日本語が巧みなドイツ人COOに、濱は明らかに驚いていたが、すぐににこやかに返す。
「私が弾いて福となるかどうかは、まだわかりませんよ……もちろん最大限の努力はいたします」
「いえいえ、濱さんが来てくださっておかしな演奏にはならないでしょう、ドイツの歌手たちからも貴女に伴奏してもらいたいとよく聞きます」
カレンバウアーはお世辞を言ったり、濱を試したりしている訳ではなさそうである。さすがの濱も、ありがとうございます、と照れを見せた。
三喜雄のほうを向いたカレンバウアーは、名刺を差し出してきた。
「この間は私がばたばたして、きちんとお話もできませんでした、ごめんなさい」
「あっ、いえ」
三喜雄も名刺入れを鞄から出す。カレンバウアーの名刺には、秘書室長の武藤のそれと同じく、フォーゲルベッカー社のエンブレムとコンセプト、「Süsse Liebe macht glücklich (甘い愛はあなたを幸せにする)」が入っていた。甘い愛とは、この会社のチョコレートを指すのだろう。
「この間のパパゲーノは何も手を入れずに、あのまま使えそうです」
最近は呼吸音や微妙な音程のズレなどを、AIを使いすぐにきれいにできるという。加工しなくていいと聞いて、三喜雄はほっとした。
「そうですか」
「今日もそうなればいいと思っています」
カレンバウアーは、この間よりは三喜雄に対して親しげだった。何かもう少し話したいと思い言葉を探したが、その時ミキシングルームからスタッフが顔を出した。隣の部屋で合わせてもらっていいと言う。
「じゃあちょっと、響き確認しましょうか?」
濱に言われて、三喜雄は承諾した。グランドピアノの置かれた部屋は、あと3人くらいは一緒に演奏できそうな広さで、カレンバウアーも中に入った。
「もちろん開始時間には出ますから」
「はい、よかったらバランスなど確認してください……片山くんはスタジオで歌うのは初めてなので」
濱の言葉に、ああ、とカレンバウアーは小さく声を上げる。
「そうでしたか……片山さん、あまり大きな声でなくてもいいです、響く声でたっぷり歌って」
右手をゆったり回すカレンバウアーを見て、三喜雄は彼がどんな声を求めているのか、大体理解することができた。
防音扉を閉めると、外の雑音が瞬時に消えた。椅子の高さを濱が調整する間に、三喜雄は譜面台の準備をする。楽譜をめくる音がノイズにならないように、使わない部分をクリップで留め、ページの右上に軽く折り目をつける。
カレンバウアーが正面から楽譜をひょいと覗いてきた。
「片山さんは、これは全曲歌いましたか?」
譜面台に置かれた冊子の表紙を見て訊いてくるあたり、流石だなと三喜雄は思う。
「譜読みは全部しました、大学生の時に8曲舞台に上げてます」
ほぉ、とカレンバウアーは感心したような声を立てた。
「どういうコンサートで?」
「卒業演奏会です、声楽は1人の持ち時間が最大30分だったので」
「菩提樹」はシューベルトの歌曲集「冬の旅」の中の1曲である。卒業演奏会では、全24曲の中から、三喜雄が歌えそうなものを師が選んでくれた。