「何処かとマネジメントかエージェント契約すること、視野に入れといたら?」
「えーっ!」
三喜雄は驚いて思わず半ば叫んでしまったが、濱も海外での仕事の際は、エージェントに事務手続きなどを頼んでいるらしかった。
「仕事が増えてきたら大変なのよ……塚山くんなんか、自分にはスケジュール調整も無理だなんて言って、帰国してすぐにマネジメント頼んだみたい」
いかにも塚山らしくて、三喜雄は苦笑した。そうそう仕事が増えるとも思えないが、先週小田とも似たような話をしたので、心に留めておいてもいいかもしれない。
綺麗に掃除された濱の自家用車で、仕事現場に向かう道すがら、彼女が何げなく口にした言葉に、三喜雄は動揺レベルに驚いた。
「フォーゲルベッカー日本のCOOのカレンバウアーさんって、元ピアニストでしょ? スタジオに来たら私としてはちょっとやりにくいな」
「そう、なんですか?」
濱は正面を向いたまま答える。
「知らなかった? アンサンブル・ピアニストとして期待されてたらしいの、仕事を引き継ぐためにすっぱり弾くのを辞めたって」
「初耳です……ドイツにいた時も聞いたことなかったです」
耳が肥えているはずだ。もし今日、経験の少ない新人ピアニストが来ていたら、カレンバウアーを満足させられなかったのではないだろうか。そういう意味でも、濱に頼んでよかったと三喜雄は思う。
「仕事のほうが楽しかったんでしょうか」
ふと思い、三喜雄は呟いた。
「カレンバウアー家には音楽家も沢山います、ノアさんがピアノを辞めなくてもいいように思うんですけど」
濱はゆったりとハンドルを切った。有り難いことに、道は混んでいない。
「長いスランプに陥ったり、自分の実力の限界を感じたりした時に、自分に合ったものが他に見つかったら……乗り換える人はいると思うな」
確かに、音楽から離れるのは辛いだろうが、全く違う道が見つかるというのは、幸せなことかもしれない。三喜雄は深田の顔を思い浮かべる。
もし何らかの事情で歌えなくなったら、と考えた時、三喜雄は強い不安に襲われる。それは、帰国してすぐに新型感染症が世界中に蔓延して、歌う場所を長い期間奪われた経験にも根差していた。事実その数年間で、食うに困った演奏家が沢山いたのだ。三喜雄は教職の資格を取ることに邁進している最中だったとはいえ、職業音楽家としての第一歩に躓いた感じはあった。
濱はパリでのCD収録の話をしてくれた。フランス人のヴァイオリニストの伴奏をしてきたらしく、あちらに暮らす旧知の日本人音楽家とも会えて、楽しかったと話した。
「片山くんたち若い世代の音楽家が、日本じゃ食べていけない現状を何とかしたいねって話したんだけど、みんな日本から出ちゃってるからどうにもならない」
低く笑う濱は、やや自虐的だった。
「あなたたちに何とかしろって言うのも酷な話ね、私含めた日本にいる先輩たちがあなたたちの道を塞いでるんだから」
「そんなこと……」
三喜雄は言葉が見つからず口籠った。優秀な先輩方がいなければ、日本人のクラシック演奏家など世界で見向きもされなかっただろう。ただ日本では、良い演奏をすることが、演奏家の社会での存在感や地位を底上げすることには繋がらないようだとは、三喜雄も気づいていた。
目的地が近づいたことを、ナビの無機質な声が告げる。濱は三喜雄の気を引き立てるように言った。
「一回一回ベストを尽くすのみだよね、こう歌いたいってのはスポンサーに譲っちゃダメよ」
今日のパートナーは頼もしい。はい、と答えて、三喜雄は深呼吸した。