濱涼子は気さくで大らかなことで業界でも有名だが、収録当日、高田馬場のスタジオに行く前に、自分の家でちょっと合わせて行こうと誘ってくれた。現場には車で行くので、そのまま乗って行けばいいとあっさり言う。
三喜雄は恐縮しながら川口市内の濱の自宅にお邪魔して、グランドピアノの置かれた音楽室で軽く歌った。防音材を使っているらしいのに、随分響きが良くて気持ちいい。彼女の夫は開業医で、目に見えて贅沢な雰囲気は無いのだが、家具やカーテンなど、家の中のそこかしこが上品である。
「ドーナツマスターからも連絡すぐに来たわよ、CMに使ってもらえるなんて嬉しいわねぇ」
濱は「菩提樹」をざっと通した後に、弾んだ声で言った。
「いい仕事なんじゃないかな、片山くんに適任だと思う」
そんな風に言われて、三喜雄はやや照れた。
「……そうですかね」
「お師匠も喜ばれるわよ、メディアを使う仕事はなかなか無いから」
札幌に住む三喜雄の師は、ドイツ歌曲と日本歌曲で高い評価を得ているバリトンである。帰省する時に歌を聴いてもらうと、みんなもっと歌曲を歌えばいいのに、とたまに口にする。確かにCMで流れれば、耳にしてもらう機会も増えるので、歌曲の啓蒙に多少役立つかもしれない。
濱は楽譜を数ページ前に繰った。
「片山くん、これ途中そんな明るめで行くの?」
彼女が何を言いたいのか、三喜雄はすぐに察した。シューベルトの「菩提樹」は、かつての失恋を回想する男の歌である。しかしCMに使うなら、あまり深刻さを出さないほうがいいかもしれないと考えたのだ。
「うーん、そもそもドーナツに合わないような気がしてるんですけど……」
「まあね、曲のイメージが独り歩きとかありがちよね」
三喜雄はこう歌ってくれとはっきり言ってきたカレンバウアーの顔を思い出していた。今日もまた、何か要求される可能性がある。
「とりあえずこんな感じで行って、ギャラリーからご要望が出たら微調整していいですか?」
濱は三喜雄の言葉に、了解、と答え笑った。
「両社の皆様に気に入っていただけるように、しっかり演奏しましょ」
「はい、よろしくお願いします」
せっかくなので細かいところを再度確認する。音楽をよく知っているピアニストとは、本当にやりやすい。三喜雄は昨日まで抱えていた不安を、一掃することができた。
高田馬場に向けて出発する時間になり、濱はピアノの屋根を下ろしながら言った。
「片山くんもこれをきっかけに名前が売れるから、その心づもりでいたほうがいいかもね」
意味がよくわからず、三喜雄は濱の顔を見る。彼女はちょっと笑った。
「今露出度の高い塚山くんと同じようなことを、片山くんが周りから要求されたらどう動くかって話」
「CMに俺が出る訳じゃないですよ」
「でも録音風景を撮影してたんでしょ? もし今日もカメラが回るなら、CMのメイキングみたいな動画を出すつもりかもしれない」
なるほど、と三喜雄は思った。世の中の人はメイキング映像などが好きだから、マイナーなクラシックの録音場面でも観るかもしれない。とは言っても。
「俺が塚山ほど顔が売れるとは思いませんけど」
「どうかな? 年末のヴェルディの動画、再生数まだ増えてるんでしょ? まあテノールの塚山くん目当ても多いと思うけど、一緒に歌ってる片山くんの歌も皆聴くんだし」
そこで新しいCMのクレジットに三喜雄の名が出れば、あのバリトンかと注目する人もいるのではないか、と濱は言った。