パスタがやってきたので、2人してテーブルの上を空ける。帰国後、芸能事務所とマネジメント契約し、テレビ出演も経験している塚山のほうが、こんな場面に強いかもしれない。三喜雄にとっては、歌が上手くて顔がいいことだけが取り柄の、わがままで女好きな腐れ縁の男でしかないが、塚山はイタリア・ミラノの国際声楽コンクールで優勝し当地でオペラデビューを果たした、容姿と実力を兼ね備える大型テノールとして絶賛売り出し中なのだ。
思いきって三喜雄は、依頼主の名を伏せ、今回の仕事の内容と現状を塚山にざっくり話した。三喜雄がパスタを取り分けているのを見ながら、塚山は少し呆れたように言う。
「面白そうな仕事だけど……素人がいきなりピアニスト探すのとか無理だ、それにスタジオ録音は結構特殊だから、経験豊かなピアニストでないとやばいぞ」
「だよなぁ……俺だってスタジオで歌ったことないから心配なのに」
塚山はフォークを持ち、ふんふんと頷く。
「緊急事態なんだから、おまえから誰か良さげなピアニストを推薦しろ……あ、神戸の松本はやめとけよ、交通費がかかるから渋られる」
一番に思い浮かんだピアニストをまず否定され、三喜雄は憮然としそうになる。松本咲真なら気心も知れているし、安心して任せられるのだが。
三喜雄はパスタを口に入れながら、松本以外の何人かを候補に挙げてみるが、時間が無いところに無理を言うのが憚られる人ばかりだった。
「そうだ、
さも良い思いつきだと言わんばかりに塚山が出した名前は、三喜雄の脳内にもちらついてはいたが、あまりにも恐れ多かった。濱
三喜雄はドイツから帰国してすぐの時と、昨年の初夏に濱と共演しているが、いずれも三喜雄の立ち位置はその他大勢だったので、こちらから伴奏を頼むのは気が引けた。
三喜雄が尻込みするのを見越していたかのように、塚山はスマートフォンの画面をタップする。
「濱先生にRHINEしよう」
「ええっ! ちょ、それは」
三喜雄は驚き、腰を浮かせかけた。舞台も多く評価も高い塚山の伴奏からともかく、しょぼい歌手でしかない自分が、1曲だけのためにベテランピアニストを動かすなんて。
「いいだろ、訊いてみるくらい……あの人、去年おまえの伴奏した時めちゃ楽しかったって言ってたから、やってくれるよ」
塚山は無謀にも、あっさりとメッセージを濱に送ってしまった。三喜雄は酔いのせいでなく胸がどきどきして、パスタの味がしなくなる。
10分ほどすると、まず塚山のスマートフォンがテーブルの上で震え、続いて三喜雄のそれが鞄の中でくぐもった音を立てた。塚山が画面から顔を上げてにやっと笑い、三喜雄はスマートフォンを手にして心臓がきゅっとなった。
『片山くん久しぶりですね。伴奏者が倒れて窮地に陥ってると塚山くんから聞きました。今身体が空いてるので、もしかしたらお手伝いできるかもしれません』
濱涼子からのメッセージを見て、マジかよ、と三喜雄は思わず呟く。塚山は三喜雄に向かってウィンクしてみせる。
「常日頃片山に迷惑かけてるからな、連絡くらい手伝うさ」
三喜雄は長いつき合いのチャラいテノールの顔をしみじみと見た。高校生の頃から変わらない明るく染めた髪と右耳の2つのピアス。イタリアに行く前に、髭の永久脱毛をしたとドヤ顔で話していたが、つるんとした頬は、女性並みに手をかけていそうだ。
考え方も価値観も合わないのに、18歳からの知り合いだというだけで仲良し扱いされて、正直迷惑だと感じることも多かった。ただ塚山は自分にも他人にも嘘をつかない人間で、三喜雄は彼から唯一の友達だと思われていること自体は、嫌ではない。むしろ才能溢れる塚山に対し、引け目を感じているのは三喜雄のほうで、これまであまり歌のことで彼に相談を持ちかけなかったのだ。
「……ありがとうございます……」
思わず三喜雄が頭を下げると、塚山は慌てたように言った。
「こんなことで頭下げんなよ、それに濱先生のスケジュール確認して、メーカーの社員に連絡するまで片づかないぞ」
塚山の言う通りである。三喜雄は濱に、早速用件を伝えるべく指を動かした。濱がOKしてくれた場合、きっとドマスにはピアニストへのギャラを増額してもらわないといけないだろう。何ならその差額分を、自分のギャラから補填してくれても構わないと三喜雄は思った。