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3月 7

「えっ……」


 食事中に飛びこんできたメールを見て、三喜雄の口から思わず声が出た。前に座りサラダをフォークで拾っていたテノール歌手、塚山つかやま天音あまねが、どした? と訊いてくる。

 塚山と三喜雄は同い年で、高校3年生の時に声楽コンクールの札幌の予選会場で知り合った。大学は別だったが大学院で一緒に学び、ほぼ同時期に海外に留学している。気が強く平気で他人と衝突する塚山の数少ない友達である三喜雄は、自分からは声をかけないものの、誘われれば一緒に飲み食いする。


「いや、明後日一緒に仕事するピアニストが、インフルエンザになったって……」


 三喜雄の返事に、ええっ! と塚山は目を丸くした。


「どうすんだよそれ、何曲持ってんだ」


 塚山は三喜雄と同じく歌い手だ。歌手など伴奏者がいなければ、何のパフォーマンスもできないことを熟知しているので、その表情は真剣だった。心配してくれている彼にちょっと申し訳なく思いつつ、三喜雄は答える。


「1曲」


 塚山はぽかんとしてから、眉間にぎゅっと皺を寄せる。イケメンのこんな顔は迫力があるなと、三喜雄は場違いな感想を抱いた。


「は? 冗談言ってる場合かよ、全然笑えないぞ……何時から何歌うんだ、俺の知り合いに明後日暇なピアニストいないか訊いてやる」


 三喜雄は塚山の顔を見ながら、彼がイタリアへの4年の留学で、他人のことを考える余裕というのか、本当の思いやりのようなものを身につけたようだと感心した。大学院生時代の彼なら、心配は多少しても、誰かのために伴奏者を一緒に探すといった骨折りはしなかっただろう。


「ほれ、早く教えろ」

「あ、いや……」


 三喜雄はしくじったと思った。まだドーナツマスターのCMで歌う話は、関係者以外にしてはいけないのに、この流れだと塚山に説明しなくてはならなくなる。


「ほんとに1曲なんだ、シューベルトの『菩提樹』」

「……俺が弾こうか? あ、おまえ弾き語りしたらいいじゃん」


 塚山は真面目に言っている様子だが、笑いがこみ上げてきてしまう。


「おまえ相変わらずシューベルト舐めてるよな、あれ伴奏難しいんだぞ」

「シューベルトを軽んじてるんじゃない、現実的な提案をしてるんだよ」


 塚山は自他共に認める「オペラ歌い」だ。華やかな容姿と歌声で二枚目を演じて観客を惹きつける。しかし昔から歌曲には苦手意識があり(三喜雄に言わせれば、真剣に取り組めばそこそこ良く歌えるのだが)、イタリアでデビューしてからは、ドイツ歌曲などほとんど歌っていないようである。彼は7月にソロコンサートを開催する予定だが、プログラムの3分の2はオペラアリアだった。

 対して「歌曲歌い」の三喜雄は、短い歌の中の世界観を追求することが好きだ。キャラクターを固定され声量を要求されがちな、特にロマン派以降のオペラアリアは、原則得意ではない。モーツァルトの『魔笛』のパパゲーノは、時代的にギリギリセーフだった。

 歌曲は伴奏となるピアノの存在が重要だ。今回はたった1曲だが、それに真摯に向き合ってくれるピアニストがどうしても必要だった。

 スマートフォンが震え、ドマスの総合企画部長の野積から、2通目のメールが来た。


『日程的に延期する余裕が無いため、録音は予定通り明後日15時から行います。代役を鋭意探しておりますので、ご心配なさらないでください』


 いや、心配だから。三喜雄は突っ込みたくなった。大体、インフルエンザで倒れたピアニストだって名前も知らない人で、活動履歴も見つからないので、もしかしたら音大を卒業したばかりの超新人かもしれないと三喜雄は考えていた。新人の起用は悪いことではないし、誰が伴奏でも歌う覚悟はあるが、合わせも当日に30分ほどしかさせてもらえない予定で、やや不安だった。

 三喜雄が珍しく難しい顔になったからか、塚山はビールを口にしてから、何だって? と訊いてきた。


「代わりのピアニストを探してるっていうんだけど、不安しかない」


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