「この度はお世話になります、片山です」
三喜雄は言って頭を下げた。カレンバウアーは、こちらこそよろしくお願いします、とやはり流暢な日本語で応じた。
「シューベルトも楽しみにしていますよ」
カレンバウアーの口調は丁寧で優しかったが、やはり何処か距離感があった。
「ありがとうございます、良いものになるよう頑張ります」
そう口にしつつ、覚えてなくても仕方ないか、と三喜雄は諦めモードになる。アジア人の歌手なんて、掃いて捨てるほどドイツに留学しているのだから、いくらデビューの夜に楽屋で直接花を渡したからといって、特別目立つ活躍をしていた訳でもない日本人のバリトンなど、忘れてしまったのだろう。
苅谷が三喜雄にタクシーチケットを手渡してきた。
「帰りにお使いください」
「えっ、京浜東北線でぱっと帰れますよ」
三喜雄が戸惑うと、苅谷はうふふと笑った。
「じゃあまた次回お使いください、ピアノ曲の録音はちょっと不便なところでしたよね……後でフォームをメール添付しますので、今日の交通費はそれで申請をお願いします」
交通費まで出してくれるのかと驚きつつ、三喜雄はタクシーチケットを受け取った。まあ、使わなければ返せばいいだろう。首都圏は電車や地下鉄が張り巡らされているから、三喜雄も北海道から出てきて以来、タクシーはほとんど使ったことがない。
「菩提樹」の録音にも彼らは参加するらしく、その日の段取りの確認が行われて、解散となった。三喜雄は会社の人々をその場で見送ったが、カレンバウアーは三喜雄に声をかける訳でもなく、武藤から何か説明を受けながら練習ホールを出て行った。
三喜雄が水と楽譜を舞台側に取りに戻ると、この後大きな編成の曲を練習するらしく、プレイヤーたちは一旦席を外しスタッフが椅子や譜面台を出してきていた。まだその場に座り、楽器にスワブを通していた小田に、三喜雄は声をかける。
「これから何演るんだ?」
「マラ1、春の定演だ」
マーラーの交響曲第1番らしい。人気がある曲だ。小田は楽器片手に立ち上がる。
「東京に出るから、近々飲みに行こうぜ」
ふと三喜雄は、身体の底にまだたゆたっていた最後の緊張感が抜けたのを感じた。
「うん、俺が横浜に来てもいいよ」
「うち来る? おかんが三喜雄に会いたがってるし」
三喜雄は大学院生時代、小田の実家に2回泊まりに行った。彼の両親は、横浜に住む人の間で密かに評判のベーカリーを営んでいて、朝食に焼きたてのパンを出してくれるのが嬉しかった。小田の母親は、そんなことで喜ぶ三喜雄を気に入ってくれているらしい。
「おうちの人がいいなら、俺はもちろんいいよ」
小田と連れ立って音楽ホールを出ようとすると、ステージマネージャーが傍に来た。
「タクシー呼びますか?」
「いえ、電車で帰ります」
フォーゲルベッカーとドマスの人たちは、それぞれタクシーで東京に帰ったらしい。時計を見ると16時だったが、彼らはまだこれから仕事があるのだろう。
三喜雄はステージマネージャーにあらためて礼を言い、笑顔の小田に手を振って控え室に戻った。鞄に楽譜を片づけながら、楽しかったひとときにうっすら雲をかけているのがカレンバウアーのよそよそしさだと気づき、一人で肩をすくめる。
何を期待していたのだろう、馬鹿馬鹿しい。せっかくいい演奏ができたのに。
帰って「菩提樹」の練習をしようと考えながら、三喜雄は鞄を手に控え室を出た。