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3月 5

 生涯を共にする相手がもし見つかればと夢想するパパゲーノの気持ちを歌うのに、声が上手く乗った。弦楽器も優しく伴奏してくれる。最後の歌詞が、何かとてもよく嵌まった感じがした。

 後奏が弾むように終わり、清水が満足そうな笑みをオーケストラの面々に向けた。三喜雄も今回は、納得いく歌にできたと思った。

 録音の担当者がOKです、と手を挙げると、ギャラリーとオーケストラから拍手が起きた。カレンバウアーも笑顔を見せていたので、三喜雄はほっとして一礼する。ステージマネージャーが出てきて、こちら完了です、と告げた。


「えーっもう終わり? 片山さんもうちょっと歌わない?」


 ファゴット奏者が後ろから言い、笑いが起きた。三喜雄は気分が軽くなっていたので、言葉を返した。


「『恋人か女房か』も歌いましょうか?」

「あっあれはダメ、チェレスタが要る」


 すると、ヴィオラから声が上がる。


「え、私弾こうか? オクターブ下だけど」


 弦の音が軽やかに響いた。低っ、と突っ込みが入り、三喜雄がそれに合わせて鈴を振る真似をすると、笑いが起こる。悪い奴の本拠地に乗り込むにあたり、パパゲーノは魔法の鈴を託されていて、この場面でアリアを歌いながら半ばヤケクソで鈴を鳴らすのだ。


「『ああ、俺は独りきりでここには誰もいないよ、可愛い女の子に気に入ってもらえないから』」


 三喜雄が鈴を抱いて悲しむ芝居をしながらヴィオラの後を継ぐと、一部の団員が伴奏に入ってくれた。小田のクラリネットの音も聴こえる。演奏していない連中からヒューヒューと口笛が飛ぶと、はいはい、とステージマネージャーが笑いながら、盛り上がりかける演者を止めにかかった。


「いけませんよ片山さん、ここにいる奴らはいくらでも乗ってくるんだから」


 皆どっと笑った。オーケストラはこれから他の合わせがあるかもしれないので、楽しかったけれど退散すべく、三喜雄は挨拶がてら団員に言った。


「『魔笛』でガラコンとかすることあったら、呼んでください」


 拍手が起こる中、小田がぱっと手を挙げた。


「三喜雄、小中学校の音楽鑑賞会に歌いに来てくれる?」

「えっ、小中学生にこの歌歌うの? 出禁にならないか?」


 わはは、とそこかしこで笑いが湧いた。清水も苦笑しながら、三喜雄に言う。


「今年は第九歌いに来てよ、オペラのオーディションも受けたらいいのに」


 三喜雄は返事をせずに、笑い返しただけだった。ベートーヴェンの「第九」は問題無いが、オペラは練習の拘束時間が長く、日本ではチケットノルマが膨大だ。もし「魔笛」を全幕上演するとして、パパゲーノ役を貰ったならば、会場の規模にもよるが50枚は持たされるだろう。真っ平ごめんである。

 指揮者とコンサートマスターに挨拶し、三喜雄は椅子が並ぶギャラリーのほうに足を向けた。途中、録音担当者とビデオカメラを回す人たちにも挨拶する。たとえ30分ほどの演奏であっても、スタッフがいなければ演奏家は何もできない。だから、きちんと感謝の気持ちを伝えろと三喜雄に教えたのは、札幌に暮らす最初の師である。

 菓子の会社の社員たちが集まる場所へ、三喜雄は近づいた。ドーナツマスターの人たちが、フォーゲルベッカーのCOOと順番に話している。


「お疲れさまでした、いい演奏でした」


 井納がにこやかに迎えてくれた。その場の人たちは、少なからず満足してくれている様子である。三喜雄は密かに胸を撫で下ろし、ドイツ人のCOOのほうを向く。

 久しぶりだね、といった声を、カレンバウアーがかけてくれることを心の何処かで期待していたので、彼がよそよそしい微笑を自分に向けていることに気づいた三喜雄は、勝手にがっかりした。とは言え、今回の出演料の半分はこの人が出してくれるので、社会人として常識的に振る舞わなくてはいけない。



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