三喜雄が指定席に向かうと、正面に並んだ椅子に2社の社員たちや、その他の演者でない人たちが15人ほど、ばらけて座っていることに気づく。オーケストラのメンバーが続々とやってきて、位置につくと音出しを始めた。三喜雄は自分の背後で演奏するチェロとコントラバスの面々に、軽く会釈する。このオーケストラはメンバーが皆気さくなことで有名で、コントラバスの2人は弓を上げて応じてくれた。
少しずつ声を出しながら、こんな風にオーケストラの前で、たった1人でスタンバイするのは初めてだと三喜雄は思う。まるでオペラのガラコンサートのような光景に、緊張と高揚が同時に身体の内側から湧き出す。合唱を伴う宗教曲のソリストは2人以上いることが多く、まだ三喜雄はソロコンサートを開催したことが無いが、その場合伴奏はピアノだけだろう。
ステージマネージャーが手を叩き、音がすっと止む。彼は全員に向かって話し始めた。
「皆さんおはようございます、これからパパゲーノのアリアの録音に入ります……清水マエストロと、バリトンの片山三喜雄さん」
「よろしくお願いします」
紹介された三喜雄は立ち上がり、あらためてオーケストラのメンバーに頭を下げる。木管楽器の周辺、つまり小田とその近くに座る面々が、こっちに向かって手を振った。弦楽器の面々も一斉に譜面台を弓で軽く叩き、小さくイェーイ、などと言っている。変に明るいオーケストラである。
ステージマネージャーは続けて、客席にちらっと視線をやった。
「本日は株式会社ドーナツマスターの皆様と、フォーゲルベッカー日本の皆様がご見学です」
2社の社員たちが、全員順番に紹介される。
「またうちとドマスさんが動画配信用のVも撮りますが、演奏中カメラ目線は無しでよろしくお願いします」
ステージマネージャーの言葉に、オーケストラからくすくす笑いが洩れた。この管弦楽団は動画配信サイトにチャンネルを持っており、日常の練習風景やリハーサルの様子などをアップしている。ステージマネージャーは、三喜雄に言った。
「片山さん、事後承諾で申し訳ないんですけど、ドマスさんの商品制作発表が済み次第、うちのサイトに今日の様子上げます」
「あ、はい、しょぼい歌い手なんで再生数取れないと思いますけど」
三喜雄が答えると、いやいやいや、と背後から複数の声が上がり、木管楽器群から声が上がる。
「私たち毎日見ますから」
「年末の札幌のライブみたいにぶっ放してください」
するとホルンの男性が笑いながら突っ込んだ。
「今日モーツァルトだろが」
さざめき笑いが起こる中、確かに、と三喜雄も苦笑する。ヴェルディと同じように歌えば、たぶんこの仕事を干されるだろう。
ステージマネージャーが演者たちの無駄口を放置していると、ホールの扉がそっと開いた。清水がそちらを見て、思わずといった風情で、あっ、と呟いた。
三喜雄も扉から静かに入ってきた背の高い男性の姿を認め、どきっとした。武藤と井納が音も無く立ち上がって、彼を出迎え何か話している。
清水が三喜雄に上半身を傾けてきた。
「片山くん、あの人、フォーゲルベッカーのトップだよね?」
「……はい、録音に間に合うように来ると聞いてました」
カフェオレ色の髪と隙の無い身のこなし。ノア・カレンバウアーは、三喜雄のオペラデビューを楽屋まで祝いに来てくれた7年前と、遠目で見る限り変わっていなかった。
観客が落ち着いたのを確認して、ステージマネージャーが言った。
「今いらっしゃったのは、フォーゲルベッカーCOOのカレンバウアーさんです」
カレンバウアーは名を呼ばれ、素早く立ち上がって軽く頭を下げる。日本風の仕草が身についているようだった。
「ではマエストロ、お願いします」
ステージマネージャーのコールを受け、清水はよっしゃ、と言って指揮台に足を掛けた。
オーボエがAの音を鳴らし、次々に他の楽器もチューニングを始める。三喜雄はあまりギャラリーのほうを見ないようにしながら、椅子の上で伸びをして深呼吸した。
「まずテンポ確認します、良さそうなら最後までいきますよ」
清水の声かけでチューニングが終わると、録音機材の前に座る男性が、いつでもどうぞ、とこちらに向かって言った。指揮者がスコアを開くのに合わせ、三喜雄は楽譜を持って立ち上がる。しん、と全ての音が無くなる瞬間、無意識に近いところでもうひとりの自分が囁くのを、三喜雄は今日も聴く。
歌え、作曲家が求めているように、聴いている人が楽しめるように。そしておまえが自由になれるように。