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3月 2

 1人になれて小さく溜め息をついた三喜雄は、持参した水筒から冷えていない水をひと口飲んだ。昨日から良い天気だが少し肌寒く、何処に行っても暖房の温度が上がっていて、乾燥している。乾いた空気は喉の敵である。

 軽いノック音がして、ストレッチとハミングをしていた三喜雄が返事をすると同時に、ドアが開いた。顔を覗かせたのは、横浜市交響楽団の専属クラリネット奏者である、小田おだ亮太りょうただった。


「おおっ、おはよう三喜雄!」


 小田は大学院時代からの友人だ。三喜雄が初めて東京に出てきた時、同じマンションの2つ隣の部屋で暮らしていた彼に、いろいろな場面でとても世話になった。

 小田は大学院を卒業した翌年、地元のオーケストラのオーディションに合格し、現在実家暮らしである。まるで年を取らない彼の朗らかな顔を見て、三喜雄は気持ちが晴れやかになるのを感じた。


「亮太、ちょっと久しぶり……元気だった?」


 クラリネットを右手に持ったまま、小田は嬉しげに笑う。


「まあな、おまえも元気そうだな、まさかの仕事で驚いたよ」

「だろうな、俺も最初冗談かと思ったから」


 三喜雄が言うと、小田はそれどうよ、と突っ込んでくる。


「俺たち誰が歌いに来て何のために録音するのか、マジで昨日の夜まで聞かされてなかったんだぞ」


 そうなのか。三喜雄もこれには驚いた。


「いや、俺も先月この仕事決まった時にめちゃ口止めされて」


 うっすら眉間に皺を寄せる小田は、よくわからないと言わんばかりだった。


「何でそんな秘密めいてるんだ?」

「さあ……新商品出る時ってそんなもんじゃないのか? 洩れたらすぐにネットで広がるからかな?」

「やばい仕事じゃないだろうな」


 小田の真剣な口調が逆に可笑しくて、三喜雄は思わず笑った。するとまた扉が開き、自分たちより歳上の男性が中を覗いてきた。


「やっぱり亮太ここか、ソリストの邪魔をするんじゃない」

「えーだって、俺三喜雄のおかんですもん」


 唇を尖らせながら小田が冗談をかました相手は、このオーケストラのコンサートマスターだ。三喜雄は慌てて頭を下げた。まだまだ新人である三喜雄のほうから、本来挨拶すべき人なのだ。


「おはようございます、今日はよろしくお願いします」

「よろしくね片山くん、今日は本役だから楽しみにしてる」


 三喜雄は横浜市交響楽団と、昨年10月に1度、ベートーヴェンの「第九」を合わせていた。三喜雄の先輩に当たるバリトンが体調を崩し、オケ合わせに代わりに出たのだ。

 指揮者も共演したことのある人だが、挨拶に行ったほうがいいだろう。楽譜と水だけ手にした三喜雄は扉を押さえて、楽器を持つ小田を先に行かせ、控え室を後にした。


「変に緊張してんじゃないかって気になってたんだけど、大丈夫そうで良かった」


 小田は三喜雄にこそっと言った。世話好きで気がまわる彼の、こういう気遣いに何度となく救われた。だから三喜雄はずっと、感謝と愛情をこめて、彼をおかんと呼んでいるのだった。


「演奏は初めてじゃないオケだからたぶん大丈夫、でも2つの会社の人とやり取りするのがちょっと……気疲れするというか」


 三喜雄が小さく本音を吐くと、小田はわかるわ、と溜め息混じりに呟いた。


「俺もライブハウスの人とかスポンサーさんとかと話詰めるの割としんどい」

「亮太でもそうなんだ」

「うん、その時だけマネージャー欲しい」


 小田は音楽ジャンルを問わないクラリネッティストだ。ジャズトランペッターだった祖父の血なのか、ジャズの演奏にも定評があり、ライブハウスに呼ばれることも多い。


「所詮俺たちは音楽馬鹿だからさ、一般社会人と上手くコミュニケーションできないだろ?」


 小田が肩をすくめるのを見て、三喜雄は苦笑する。


「そうなりたくないって、学生時代話してたのにな」

「だから三喜雄は会社の偉いさんと上手くやるスキルを身につけろ」


 ちょうど控え室から、横浜市交響楽団の常任指揮者の清水しみず拓弥たくやが出てきたので、三喜雄は彼に挨拶した。そしてそのまま、練習ホールに向かう。

 ホールの中では、オーケストラのメンバーの椅子を囲むようにマイクが林立していた。それに繋がった機材をいじっている人や、ビデオカメラを持った人までいる。清水と小田が、同時にうわぁ、と言った。


「ちょっと平常心を乱す光景だなぁ、片山くんはあそこかな?」


 清水は指揮台のすぐ脇に置かれた椅子を指差した。前にはスタンドマイクが2本並んでいる。その仰々しさに三喜雄は笑いそうになった。


「まあ気楽にやろう、テンポだけ確認したら一発録りのつもりでいこうか」

「はい」


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