1人になれて小さく溜め息をついた三喜雄は、持参した水筒から冷えていない水をひと口飲んだ。昨日から良い天気だが少し肌寒く、何処に行っても暖房の温度が上がっていて、乾燥している。乾いた空気は喉の敵である。
軽いノック音がして、ストレッチとハミングをしていた三喜雄が返事をすると同時に、ドアが開いた。顔を覗かせたのは、横浜市交響楽団の専属クラリネット奏者である、
「おおっ、おはよう三喜雄!」
小田は大学院時代からの友人だ。三喜雄が初めて東京に出てきた時、同じマンションの2つ隣の部屋で暮らしていた彼に、いろいろな場面でとても世話になった。
小田は大学院を卒業した翌年、地元のオーケストラのオーディションに合格し、現在実家暮らしである。まるで年を取らない彼の朗らかな顔を見て、三喜雄は気持ちが晴れやかになるのを感じた。
「亮太、ちょっと久しぶり……元気だった?」
クラリネットを右手に持ったまま、小田は嬉しげに笑う。
「まあな、おまえも元気そうだな、まさかの仕事で驚いたよ」
「だろうな、俺も最初冗談かと思ったから」
三喜雄が言うと、小田はそれどうよ、と突っ込んでくる。
「俺たち誰が歌いに来て何のために録音するのか、マジで昨日の夜まで聞かされてなかったんだぞ」
そうなのか。三喜雄もこれには驚いた。
「いや、俺も先月この仕事決まった時にめちゃ口止めされて」
うっすら眉間に皺を寄せる小田は、よくわからないと言わんばかりだった。
「何でそんな秘密めいてるんだ?」
「さあ……新商品出る時ってそんなもんじゃないのか? 洩れたらすぐにネットで広がるからかな?」
「やばい仕事じゃないだろうな」
小田の真剣な口調が逆に可笑しくて、三喜雄は思わず笑った。するとまた扉が開き、自分たちより歳上の男性が中を覗いてきた。
「やっぱり亮太ここか、ソリストの邪魔をするんじゃない」
「えーだって、俺三喜雄のおかんですもん」
唇を尖らせながら小田が冗談をかました相手は、このオーケストラのコンサートマスターだ。三喜雄は慌てて頭を下げた。まだまだ新人である三喜雄のほうから、本来挨拶すべき人なのだ。
「おはようございます、今日はよろしくお願いします」
「よろしくね片山くん、今日は本役だから楽しみにしてる」
三喜雄は横浜市交響楽団と、昨年10月に1度、ベートーヴェンの「第九」を合わせていた。三喜雄の先輩に当たるバリトンが体調を崩し、オケ合わせに代わりに出たのだ。
指揮者も共演したことのある人だが、挨拶に行ったほうがいいだろう。楽譜と水だけ手にした三喜雄は扉を押さえて、楽器を持つ小田を先に行かせ、控え室を後にした。
「変に緊張してんじゃないかって気になってたんだけど、大丈夫そうで良かった」
小田は三喜雄にこそっと言った。世話好きで気がまわる彼の、こういう気遣いに何度となく救われた。だから三喜雄はずっと、感謝と愛情をこめて、彼をおかんと呼んでいるのだった。
「演奏は初めてじゃないオケだからたぶん大丈夫、でも2つの会社の人とやり取りするのがちょっと……気疲れするというか」
三喜雄が小さく本音を吐くと、小田はわかるわ、と溜め息混じりに呟いた。
「俺もライブハウスの人とかスポンサーさんとかと話詰めるの割としんどい」
「亮太でもそうなんだ」
「うん、その時だけマネージャー欲しい」
小田は音楽ジャンルを問わないクラリネッティストだ。ジャズトランペッターだった祖父の血なのか、ジャズの演奏にも定評があり、ライブハウスに呼ばれることも多い。
「所詮俺たちは音楽馬鹿だからさ、一般社会人と上手くコミュニケーションできないだろ?」
小田が肩をすくめるのを見て、三喜雄は苦笑する。
「そうなりたくないって、学生時代話してたのにな」
「だから三喜雄は会社の偉いさんと上手くやるスキルを身につけろ」
ちょうど控え室から、横浜市交響楽団の常任指揮者の
ホールの中では、オーケストラのメンバーの椅子を囲むようにマイクが林立していた。それに繋がった機材をいじっている人や、ビデオカメラを持った人までいる。清水と小田が、同時にうわぁ、と言った。
「ちょっと平常心を乱す光景だなぁ、片山くんはあそこかな?」
清水は指揮台のすぐ脇に置かれた椅子を指差した。前にはスタンドマイクが2本並んでいる。その仰々しさに三喜雄は笑いそうになった。
「まあ気楽にやろう、テンポだけ確認したら一発録りのつもりでいこうか」
「はい」