目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

3月 1

 ドーナツマスター絡みの仕事のおかげで、3月中旬から下旬にかけて、三喜雄は落ち着かない毎日を過ごす羽目になった。一番の大仕事だった札幌でのコンサートは、長いつき合いになるメンバー6人でのアンサンブルだった。ややマニアックなプログラムではあったが、チケットはほぼ完売で、気の置けないプレイヤーたちとの故郷での演奏は、三喜雄にとってリフレッシュのひとときともなった。

 せっかくコアな音楽ネタで語らえる仲間と宿泊を伴って集まったのに、CMの音楽の録音を承っている話ができないのは、残念だった。アンサンブルユニット「学歴ランドリーズ」は、名前の通り学歴に一癖(?)ある演奏家の集団で、リーダーの松本まつもと咲真さくまは、三喜雄が大学院生の頃から親しくしている優秀なピアニストである。彼に今回の録音の伴奏を頼めたらと思ったが、あの日会議室では共演NGは尋ねてくれたものの、共演したいプレイヤーの希望は訊いてくれなかった。

 勤務先の中学校と小学校で卒業生を送り出した翌週、三喜雄は横浜に出かけた。オケバージョンのCMの録音のためである。春休みに入っているので、三喜雄が指揮者とオーケストラのスケジュールに合わせた。

 桜木町駅から歩いてほどない場所にある横浜市交響楽団の練習ホールが、録音の会場だった。何処からともなく花の香りがして、桜の木の枝で膨らむ蕾が今にもほころびそうな春の午後を、あまり楽しむ余裕が無い今日の三喜雄である。

 初めて来る場所ではないが、ドーナツマスターの広報課長の苅谷かりや真希まきと、フォーゲルベッカーの秘書室長の武藤むとう珠栄たまえが、白い建物の入り口の前に立っているのを見て、一旦三喜雄はほっとする。しかし次の瞬間には、鋭い緊張感を覚えた。

 女性たちの横には、初めて顔を見る男性が2人立っていた。全員に挨拶した三喜雄は、まず男性たちと名刺を交換する。1人はドーナツマスターの総合企画部長の野積のづみ慎也しんやといった。


「初めまして、この度はお世話になります、開発部の研究室の深田くんが推薦していたかたと知って驚きました」

「こちらこそよろしくお願いします、ほんとに名前を伏せてオーディションなさったんですね」


 三喜雄が言うと、野積の表情が和らぐ。きつい印象を受けたが、案外気さくそうだ。


「フォーゲルベッカー日本法人CMOの井納いのうと申します、この度はよろしくお願いいたします」


 もう1人の井納政弘まさひろは、最高マーケティング責任者というだけあり、物腰柔らかい営業マンのような雰囲気を醸し出しつつも、三喜雄に対し値踏みする視線をさっと走らせた。武藤は今日も美しく上品だが、さりげなく三喜雄を観察している。


「本日はCOOも参ります……録音の開始には間に合うと思いますので、後ほどご挨拶させていただきます」


 井納に言われて、はい、と三喜雄は学生のようにくそ真面目に答えた。実は驚きに心臓が跳ねたのだが、冷静を装った結果だった。

 ホームページで確認したところ、フォーゲルベッカー日本法人のCOOは、ドイツ人だ。創業者であるベルリンの菓子職人、カレンバウアー一族の人間で、三喜雄はその人物と、7年前に一度だけ会っていた。

 COOも今回のCMオーディションで最終審査に加わったと武藤は話したが、わざわざ録音まで見に来るなんて、フォーゲルベッカーはドマスとのコラボに社運を賭けてでもいるのだろうかと三喜雄は考える。

 過剰な緊張に晒されながら歌った経験は数限りなく持っている三喜雄だが、今回の「舞台」はこれまで経験の無いものだ。しくじれば録り直しが効くとは言え、何回も同じ歌を本番として歌い続ければ、集中力が切れる。オーケストラにも迷惑がかかるので、やはり1回で決めるべきだろう。

 自動ドアをくぐると、楽器片手の団員たちや事務方の人々が歩き回っていた。


「おはようございます」

「おはようございます、今日はよろしくお願いします」


 三喜雄はすぐに、菓子の会社の人々とは別の控え室に案内された。普段なら直接練習ホールに行くところなのに、高級なゲスト扱いされているようで、逆に居心地が悪い。

 いや、今回の仕事に関しては、三喜雄は高級なゲストなのかもしれない。何しろ先月サインした契約書に書かれていた金額は、宗教曲のソリストを務める時の約5倍で、しかもCMの放映数が固まっていないため、これが手付けだと聞かされている。中堅オペラ歌手がタイトルロールを歌うような相場に三喜雄は仰天したのだが、万が一2つの会社の意に染まない演奏しかできない場合は、契約の破棄もあり得ることも匂わされた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?