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2月 5

「そう、ずっと訊こうと思ってたんだけど、ふかだんはこれ参加したのか?」


 深田の声は三喜雄より低いが、おそらく彼なら歌える曲だった。しかし深田はまさか、と笑い混じりに答えた。


「会社の人間はエントリーできないよ、もしできたとしても、俺ドイツ語下手だし無理……そんな大々的に募集かけなかったし、クラシック歌唱の男声オンリーって指定してたのに、300人近い音源が集まったんだ」


 えっ、と思わず三喜雄は低く唸った。まるでアイドルの新人オーディションのようだ。しかしそういったものの場合、最終審査は審査員の前で、実際歌うのではないのか。

 いやまあ、あの2曲なら今暗譜ででも歌えるけど、と三喜雄が考えていると、指定された会議室に着いたらしく、深田がドアをノックした。


「研究室の深田です、片山さんをお連れしました」


 どうぞ、と中から女性の声がした。深田が開けたドアの向こうには大きなテーブルがどんと構えており、3人の女性がばらけて座っている。彼女らは皆三喜雄の顔を見ていたが、これからオーディションの最終審査がおこなわれるような雰囲気ではなかった。

 女性たちはそれぞれ、ドーナツマスターの広報部の課長、商品開発部の部長(深田の上司だ)、そして今回ドマスとのコラボレーション商品の販売を許諾したチョコレートメーカーの代表者だと深田が紹介してくれた。三喜雄は名前とメールアドレス以外何も書いていない歌手用の名刺を、彼女らと順番に交換した。そして3人目の女性から渡された名刺を見て、心臓がとくん、と鳴ったのを自覚した。

 フォーゲルベッカー・チョコレート日本法人最高執行責任者付秘書室長。

 三喜雄はその懐かしい名前に淡いときめきのようなものを感じ、今朝ドイツにいた頃の夢を見たばかりだったので軽く高揚したが、秘書だという女性と個人的に話す場面では無さそうなので、言われるままに椅子に腰を下ろした。

 商品開発部長は、まず三喜雄に念押しする。


「今日まで深田さんも片山さんに詳しくお話ししなかったと思うんですが、これから片山さんにお伝えすることは我が社の極秘情報にあたりますので、まだ口外なさらないようお願いしたいです」

「はい、承知しました」


 三喜雄に手渡された紙の束には、社外秘と右上に印刷してある。商品開発部長はざっくり説明する。


「この春、予定としては5月ですが、ドイツのベルリンに本社があるフォーゲルベッカーさんのチョコレートを使って、期間限定の新商品を発売します……フォーゲルベッカーはもしかしたら、ドイツに留学されていた片山さんは、ご存知ですか?」


 いきなり振られて、三喜雄はややどもりながら、はい、と答えた。


「スーパーで手に入ったのでよくお世話になりました……あと、フォーゲルベッカーは若い演奏家を積極的に支援する会社なので、ドイツのクラシックプレイヤーの間では有名でした」


 三喜雄の話に、3人の女性は一斉に表情を緩めた。開発部長が話を続ける。


「フォーゲルベッカーのチョコレートは東京の輸入食品店で2018年から取り扱われ始めて、日本のバレンタイン商戦に、東京の一部のデパートのみでしたが、2020年に初参加しました……イベントの売り上げがコロナ禍の影響を受け始めた時期ではあったものの、美味しいドイツのチョコレートがあるとネットで噂が広まりました」

 彼女の話の全てが初耳だったが、当然である。フォーゲルベッカー社が日本に進出してきた頃、三喜雄は故郷の札幌で事務バイトに勤しみ、学生時代に取得し損ねた小学校教諭の資格を取る準備をしていた。帰国してすぐに歌手として引き立てられる訳ではないとわかっていたので、地元で癒されながら、現実的に食べていくための武器を身につけたかったのだ。

 フォーゲルベッカー社は大胆にも、感染症で日本の全てが冷えこんでいた時に日本法人を設置して、チョコレートが大好きなこの国の人たちにじわじわ浸透してきた。そして今年、全国にチェーン店を持つドーナツメーカーとコラボレーションすることを決めたという。


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