「片やん」
ビルの1階のロビーで声をかけられ、三喜雄はそちらを振り返った。学生時代よりも髪が短くなっただけで、体型も人懐っこい笑顔も変わらない男性が、スーツ姿で立っていた。三喜雄も懐かしさに思わず立ち上がり、彼に近づく。
「ふかだん、ほんと久しぶりだな」
「RHINEばっかりで全然顔合わせてなかったなぁ……俺は片やんが歌ってるの見てるから、そんな感じしなかったけど」
深田は学生時代からそうだったように、三喜雄を眩しげに見た。
「ご活躍で何よりだよ」
「ふかだんこそ、研究室でドーナツ作りながら歌ってる人なんか、俺の知り合いに他にいないよ」
深田は特殊な経歴を持つ。国立大学の理系学部で香りについて学んでいたが、卒業後に芸術大学に入学した。三喜雄が大学院音楽研究科の1年、深田が音楽学部の1年の時に知り合った、同い年である。声楽科の先生がたはいい声で丁寧に歌う深田に期待していたのだが、前の大学のゼミの先生から声をかけられた彼は、研究者として就職する道を選んだ。
深田自身から彼の選択を聞いた時、三喜雄はドイツで必死で歌っていて、歌手としてやっていきたいのかどうかわからないまま留学までしている自分の優柔不断さに、杭を打たれたような気持ちになった。自分は歌で食べていくほど上手くないから、これから歌は趣味だと言い切った深田の潔さに触れて、三喜雄もある意味、歌って生きていこうと決めた側面がある。
エレベーターホールに導かれて、三喜雄はついきょろきょろしてしまう。こういう、如何にもオフィスという場所に縁が無く、音楽の世界に居た深田がこんなところに勤めていることも不思議な感じがする。
「それでふかだん、アンサンブルの練習はどれくらいしてるんだ?」
三喜雄は音も無く静かに昇るエレベーターの中で、友人に尋ねる。深田は一昨年の春、精鋭を集めた混声アンサンブルの新メンバーオーディションに合格した。20人のメンバーはほとんどが専業の歌手なので、芸大卒の現役研究室員が加わったと、界隈で話題になったのだ。
都内で開催されるコンサートのチケットが、ほぼ毎回売り切れるほど人気のアンサンブルに参加したからには、深田も「歌は趣味」とは言えなくなっているはずだった。感染症による自粛ムードが緩み、コンサートもようやく増えてきたので、彼が歌う姿ももっと見ることができるだろう。
「うん、通常は週に1回だよ、東京住まいでない人もいるから」
「本番前に増やす感じ?」
「そうそう、去年のクリスマスコンサートは仕事の追い込みが被ったから、ちょっときつかった……」
やや溜め息混じりに深田が言った時、エレベーターが12階に到着した。扉が開くと、薄暗い廊下だったので、三喜雄は深田を振り返る。
「えっ? ふかだんが仕事してるとこに行くんじゃないの?」
それを聞いた深田はぶっと吹き出した。
「見学会だと思ってた? 今から片やんは会議室で契約を伴う仕事の話をするんだよ、俺は単なるつき添いです」
「……そうか、俺ふかだんのとこに遊びに来た感満載だった」
久々に友人と顔を合わせて微妙にはしゃいでしまった三喜雄は、やや反省する。深田はくすくす笑いながら、そんな三喜雄を先導した。
「ほんとは俺が同席する筋じゃないんだけど、開発にかかわった商品だし、今回のオーディションに片やんを誘ったのも俺だしってことで」
思えば、深田に声をかけられたのでなければ、たぶんデモ音源など提出しなかった。深田は昨年の夏の終わりに、片やんの歌に合いそうな仕事をうちの会社で来年やるんだけど、と、よくわからないメッセージを送ってきた。詳しく聞くと、新作のコマーシャルのバックにクラシックを流す企画が本決まりになり、歌える人を探しているという。
「課題曲」は、モーツァルトのオペラ「魔笛」のパパゲーノのアリアと、シューベルトの歌曲「菩提樹」。三喜雄がどちらの曲も舞台に上げていることを深田は知っているので、声をかけてくれたのだった。