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2月 2

 笹森は音大のピアノ科を出てから、小学校教諭の免許を取っている人である。本人いわく歌は得意ではないので、三喜雄を歓迎してくれた。4年生以上は2人で授業をおこなう日があり、笹森は専ら伴奏に徹している。

 三喜雄は彼に伝えることがあるのを思い出し、授業のデータ入力の手を止める。


「笹森さん……去年の10月に手伝っていただいたオーディションなんですけど、通ったようなんです、ありがとうございました」


 三喜雄の言葉に、笹森は足を組み直して、は? と首を傾げた。やはり忘れていたかと三喜雄は思う。


「あの、ドマスの新しいCMに使うかもしれない歌の録音の、伴奏頼んだ件です」

「ああ、あれか!」


 笹森の目が見開かれた。


「えっ、じゃあみっきぃの歌がCMで流れるの? 凄いじゃんそれ」


 自分のことのように嬉しげに言う先輩は好ましいが、三喜雄は宥めにかかる。


「いや、その可能性があるってだけじゃないかと……今日の夕方呼び出されてるから、ちゃんと聞いてきます」

「おう、決定ならちゃんと校長と広報に言えよ、初等科だけでなく学院全体の宣伝にもなるからな……去年の秋くらいから、この学校であの片山三喜雄が音楽の授業をしてるって、噂になってるみたいだぞ」


 笹森の声は弾んでいたが、実力も無いのに無駄に名前が広がっているのも困りものだと三喜雄は思う。昨年の春から、感染症の拡大を防ぐための自粛ムードが一気に薄れて、延期になっていたものを含むコンサートが次々に催された。合唱曲のソリストを請け負うことが多い三喜雄は、6月から12月までほぼ毎月、主にアマチュア合唱団の演奏会で歌った。その結果、首都圏のクラシック音楽界隈で多少知名度が上がったようなのだが、単に露出が多かっただけのことである。

 とにかく、何か新しい仕事をもらえるかもしれないのは、笹森の協力あってのことだった。伴奏を彼が引き受けてくれたおかげで、それらしいデモ音源を作ることができた。笹森はソリストの伴奏はほとんどやったことが無いらしく、確かに音が華やか過ぎたのだが、録音するならあれくらいのほうが良いのかもしれない。

 その時講師控室に、背の高い男が入ってきた。三喜雄は椅子から彼を見上げておはようございます、と声をかけたが、笹森は目を合わさず、あまり気の無い挨拶をした。

 背の高い男も、三喜雄の顔を見て、おはようございます、と言った。彼がすたすたとこちらに来るので、三喜雄はマスクをつける。

 体育講師の兼松かねまつ健次けんじは、マスクをしておいたほうがいいだろうかと思うほどには、いつも距離感が近い。笹森は兼松のそういう、他人のテリトリーを平気で侵す図々しさを毛嫌いしているので、三喜雄やその他の先生がたには見せないような冷ややかな態度を取る。


「いい天気ですね、子どもたちも今日は元気だからいいですよ」


 三喜雄はそう話す兼松に、そうですね、と応じたが、笹森は自分には関係無いというように、児童たちが提出した音楽ノートのチェックを始めた。

 確かに、兼松はまだましなのだが、体育専任講師たちには、音楽専任講師たちを、曖昧な世界で生きる軟弱者だと見做して小馬鹿にする傾向がある。音楽講師だって、体育講師を非知性的な野蛮人などと陰でなじっているので、お互い様なのだが。三喜雄は中学校で早々にそういった対立の構図を察し、小学校でも似たり寄ったりであることを残念に思っている。この控室は、科目専任講師しか使わない部屋で、日々彼らと顔を合わさざるを得ないのだから、もう少し折り合いをつければいいのに。

 兼松ももう笹森を無視して、三喜雄にだけ話す。


「片山先生、遅ればせながら先生が年末歌った北海道のコンサートを見たんですよ」


 三喜雄はそうなんですか、と杉の木のように真っ直ぐ立つ兼松に言った。あんなもの興味あるのかと、意外な思いである。



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