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2月 1

 久しぶりに留学中の夢を見たせいか、目覚めが良かった。日本に、というよりも故郷である北海道に逃げ帰りたくなったこともあったが、今振り返るとケルンに居た3年間は、本当に楽しかったと思う。

 三喜雄は淡い幸福感を味わいつつベッドの中で伸びをして、もぞもぞと暖かい場所から起き出した。暦の上では春になったが、朝はまだまだ寒い。顔を洗うために、少し迷ったが湯を使った。

 クローゼットから当たり障りの無い服を選ぶ。まあそもそも、当たり障りの無い服しか持っていないのだが、案外小学生は教員の服や髪をよく見ているので、清潔感やきちんとした雰囲気は大切だ。

 炊飯器が炊き上がりを告げる。「アマリリス」のメロディを、三喜雄は鼻歌でなぞりながら、卵焼きパンに溶いた卵を落とした。じゅっ、と音がして香りが広がる。

 大学院に受かり東京で一人暮らしを始めて以来なので、三喜雄の手弁当歴は長いほうである。留学先でも、寮扱いされていたアパートの隣室に韓国人のバリトンが住んでいて、弁当文化のある国の出身同士、情報交換しながら弁当を作った。今はその頃ほど時間をかけて作らないが、昨夜の残りの和え物と焼き魚、そして今作った卵焼きを入れて、昼食の完成だ。

 焼いたトーストと切ったトマト、ヨーグルトを小さな机に並べて、デカフェを飲みながら朝食を摂る。新聞のヘッドラインは相変わらず暗い話題が多いが、ベランダに面した窓から見える早春の空は、そんなことは預かり知らぬと言わんばかりに晴れ渡っていた。

 洗濯をすればよかったと思いつつ、三喜雄は鉢植えのガーベラに水をやり、ベランダに出す。南向きのベランダは日当たりが良く、洗濯物を干すにもガーデニングにもありがたかった。

 歯を磨き、洗い物を済ませると、もう家を出る時間が迫っていた。三喜雄はコートに袖を通しながら、ガスや電気の消し忘れが無いかを見て回り、鞄を手にして玄関に向かう。

 今日は3コマの授業の後、夕方に大学院時代からの友人の会社にお邪魔することになっている。秋に2曲のデモ音源を出して、その会社のCMオーディションにひやかしで参加したのだが、受かったと一昨日、その会社の広報が連絡をくれたのだ。歌う仕事にありつけるらしいのは嬉しいものの、商品開発の研究室にいる友人は、合格者の今後のスケジュールなどにはノータッチらしく、何をやらされるのか全く見当がつかない。

 まあとにかく、本日午後3時までは小学生の情操教育に集中、である。フリーランスのバリトン歌手である片山三喜雄は、マンションのロビーから冷たい空気と眩しい朝日の中に飛び出して、JRの駅に向かう人の波に紛れ込んだ。




「6年B組どうだった?」


 講師控室に戻ると、常勤講師の笹森ささもり優介ゆうすけがマグカップ片手にのんびり話しかけてきた。彼は三喜雄より4つ年上で、音楽の授業を統括し、担任に進捗を報告している。マスクの上の丸い目がいつも快活で、気持ちのいい人物である。

 三喜雄は出勤簿と授業計画書を開いて、洩れや抜けが無いかをチェックしながら答えた。


「欠席ゼロでした、インフル気にする子もいるので、ちょっと距離置いて歌わせました」

「了解、何とかマスク無しで卒業まで歌わせてあげたいねぇ」

「そうですね……あ、校歌はもうみんな歌えると思いますよ」


 三喜雄の報告に、笹森はさすがみっきぃ、とおどけてみせたが、子どもたちが真面目に練習した成果であり、別に三喜雄の指導が良い訳ではないので、苦笑を返した。

 この小学校は、やんごとない方々が代々在籍した歴史ある学院「修徳院」に属している。児童は皆、お受験を通過した躾の行き届いたお子様ばかりだからか、多少やんちゃな言動は見られても、公立のような授業崩壊など考えられない。実際三喜雄も、不慣れな自分の指示に従い一生懸命歌ってくれる素直な子どもたちに、半ば感嘆していた。

 小学校は音楽教育の中でも、「歌唱」に力を入れている。それが声楽を専攻しており、現役の歌手でもある三喜雄にとってはラッキーだった。三喜雄は同じ学院の中学校で、男子生徒たちにも音楽を教えているが、小学校の音楽教員に欠員が出たので、そちらの面倒も見てくれないかと言われたのだ。



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