腕を解かれてカレンバウアーを見上げると、彼の整った容貌にやや見惚れた。ハンサムってこういう顔を言うんだろうなと、三喜雄はしみじみと思う。あまりじっと見たからか、緑がかったカフェオレの瞳がふわりと笑った。さっきとは違う意味で気恥ずかしくなり、三喜雄は視線を少し左に外した。
「忙しい時に邪魔したね、ではまた」
カレンバウアーが言うので、トマスが三喜雄の横にやって来て、2人で彼を見送った。誰か待たせているのか、彼は早足で廊下の先を右に曲がって消える。
トマスは花束を抱く三喜雄に、あの一族は若い音楽家を応援するのが好きだから、何か持って来たら遠慮なく貰っておけばいいと説明した。
「俺のデビューの時も花を送って来た、まあ楽屋までわざわざ来るのは珍しいかも……三喜雄が日本人だからかな」
「……どういう意味?」
「確かあのノア・カレンバウアーのお祖母さんは日本人のソプラノなんだ、だから割と日本贔屓だという噂」
そうだったのか。日本人だから蔑まれたのではなく、むしろ逆だったのかもしれない。三喜雄はほっとすると同時に、失礼な態度をとったことを猛省したが、日本人だからという理由だけで贔屓にされるのもなぁ、とも思う。
トマスは三喜雄の軽いもやもやを察したかのように、背中の真ん中をばしっと叩いた。
「カレンバウアー一族は誰にでも花を贈る訳じゃないんだぞ、彼らの耳は肥えてるからな」
なるほど、ミヒャエルみたいな歌手もいるからな。三喜雄は感心する。
「だから、デビューを祝ってもらって今活躍してる演奏家も多い」
「きみもそのうちの1人ってことか」
トマスは三喜雄の言葉に、ドヤ顔になった。この人は素直で、こういうところが好きだと三喜雄は思う。明るいテノールは楽しげに言った。
「仮にそうだとしたら、三喜雄にもこれからオファーが来るぞ」
「それはどうかな、俺はオペラ歌手じゃないから」
トマスは三喜雄の言葉に首を傾げた。
「芝居も上手いんだし、もっとオペラもやればいいのに……今日正直パパゲーノと絡むところは、ミヒャエルよりやりやすかった」
その時ぱたぱたと足音が近づく音がして、今度は演出家が楽屋を覗いてきた。
「三喜雄、今夜はおめでとう」
「あっ、ありがとうございます」
デビューほやほやの日本人歌手が頭をぺこりと下げるのを見て、演出家は小さく笑った。
「よくやってくれた、客も大喜びだ……飲みに行きたいのはわかってる、でもその前に2幕で確認したいところがあるから、トマスと一緒にリハ室に来て」
演出家はせかせかと廊下を戻って行く。明日も同じ時間から同じ演目の公演があり、ダブルキャストではないので、今夜は三喜雄も飲む気は無いし、全員がそうだと思うのだが……。
「自分が飲みたいのを我慢してるんだよ、あの人は……とにかく着替えようぜ」
トマスにも急かされて、三喜雄は衣装を脱ぎ始める。姿形も役から離れる時になってようやく、全幕歌ったんだなという達成感みたいなものが、じわじわと身体の深いところから湧き出してくるのを感じた。
評価がどうであろうと、今夜の舞台のことはきっと忘れないだろうと素直に思える。鏡の前に置かれたクリーム色の薔薇の花束が、ほんのり輝いて見えた。