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プロローグ ③

 その時トマスが三喜雄の背中を2度突いた。受け取れ、という指示らしい。三喜雄は微笑に困惑を交え始めたカレンバウアーに気づき、危機感から腕を伸ばして恐る恐る花束を受け取った。そんなに大きな花束ではないのにやけに重く感じたが、ふわりと優しい香りが広がり、緊張が緩んだ。


「……ありがとうございます」


 舞台の後に花を貰うのは、ドイツに来て初めてだった。そのことに思い至った三喜雄は嬉しくなり、清楚な色の大きな薔薇を見つめた。

 すると、ふわっと温かいものに包まれた。薔薇とは違う、いい匂いがする。あれっ、と思った次の瞬間、カレンバウアーの腕の中に花束ごと抱かれていることに気づき、三喜雄は硬直した。

 いや待てよ、打ち上げとかならとにかく、こんなとこで顔もどろどろなのに、ハグしてくるのかよ! 三喜雄はカレンバウアーの高そうなスーツやネクタイに顔が触れないよう、慌てて首を引いた。それを拒絶か戸惑いと受け取ったのだろう、カレンバウアーはすぐに腕を解いた。

 失礼な態度を取ってしまったと思った三喜雄は、咄嗟にカレンバウアーを見上げて謝罪の言葉を口にしかけたが、彼は何やら楽しげに三喜雄を見下ろしていた。すぐ近くで見ると、その瞳の色はカフェオレに、僅かに緑が混じっている。


「ごめんなさい、日本人はこういうのは好きではなかったね」


 言われてどきっとした三喜雄は、いえ、と強めに否定した。


「こちらこそ申し訳ありません、化粧がきちんと落ちていないので、服を汚してはいけないと思って」


 カレンバウアーは少し目を見開く。


「気を遣わせてしまったね……やっぱりきみはドイツ語を話せるのか、舞台でも自然な話し方だったから驚いたんだけれど」


 それは、日本人だから話せないと馬鹿にされたくなくて、必死で勉強した結果である。


「ありがとうございます、話せないとここでは何も始まらないということくらいは、理解しています」


 三喜雄は1回目より感謝の言葉に気持ちが籠っていないことを自覚した。外国語を操れないアジア人留学生を軽んじるのは、案外こういうアッパークラスの人たちなのだ。しかも彼らは無自覚に馬鹿にしてくることもあるので、タチが悪い。


「……見かけによらず気が強いんだな」


 目の前のドイツ人は半ば独り言にして呟く。大舞台の後でやや冷静さを欠いていた三喜雄は、つい彼の顔を上目遣いでじろりと見てしまった。こちらに来てから、実年齢よりかなり若く見られていることは承知しているが、可愛いとか見かけと違うとか言われるのは、あまり好きではない。

 カレンバウアーは、自分より10センチほど背の低い、東洋人のバリトン歌手の軽い反発を見て、目を丸くしてから微笑した。


「重ね重ね申し訳ない……面白い歌い手のデビューに立ち会えて、私も少しエキサイトしているものだから、言葉を上手く選べなくて」


 彼が嘘を言っているようには感じられない。三喜雄は、自分の卑屈な思い込みを初対面の人にぶつけたことを恥じて、思わず俯いた。他人からの祝福を素直に受け止められないのは、人として駄目だと反省する。


「……こちらこそ申し訳ありません」

「きみが気にすることはないよ、もう1日あるから、今夜はよく休んで明日もより良い舞台を見せてください」


 カレンバウアーは鷹揚にそう言って、もう一度三喜雄の上半身に腕を回した。軽く背中を叩く大きな手は優しく、やはり彼のスーツから微かにいい匂いがして、三喜雄はちょっとどきどきしてしまう。


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