トマスは鏡越しに三喜雄の顔を見た。フォーゲルベッカーとは、ドイツやオーストリアで人気のチョコレート店で、ベルリンに本社と工場を持つ。創業者一族から音楽家を多数輩出しているため、演奏会や音楽イベントを積極的に後援することでも有名だ。今日と明日の2日間にわたる今回の定期公演でも、後援リストに社名を連ねている。
今日と明日の舞台でパパゲーノを歌うはずだったミヒャエルは、フォーゲルベッカーの創業者、カレンバウアー家に連なる人である。三喜雄がアンダースタディを務めるのが申し訳ないくらい良い歌い手だが、風邪をこじらせ喉の調子を完全に狂わせた。体調を顧みず夜遊びが過ぎたという噂もあったからか、そんなガサガサの声では無理だと演出家にも指揮者にもばっさり言われてしまったミヒャエルは、泣く泣く役を三喜雄に譲ったのだ。
フォーゲルベッカーのどんな役職の者だか知らないが、おそらく来訪者は、演出家や代役の歌手に嫌味のひとつでも言いに来たに違いなかった。身内のミヒャエルが役つきなので後援金も増額したのに、彼を引っ込められたあげく、冴えない日本人の代役の歌を聴かされたのだから。
三喜雄は2人に背中を向けているのをいいことに、溜め息をついた。下手くそである以前に、日本人だからだろうという思いに高揚感がやや萎えた。音楽院は外国人留学生が多いため、真面目に勉強していれば、アジア人であることであからさまな差別をされることはない。しかし演奏会に出ると、たまに観客の自分に対する値踏みが、歌手としての実力ではない部分からきていることに気づき、微かに不愉快になる。1年半で慣れたとはいえ、楽しい経験ではない。
無感情に、肯定も否定もせずに話を聞く。そう決めて三喜雄は、扉のほうを振り返った。すると、職員の後ろから、スーツ姿の背の高い男性が楽屋の中を覗きこんできた。彼女は驚いて振り返る。
「あっ、お待たせして申し訳ありません」
「いや、来たほうが早いと思って……ああ、2人とも今日はおめでとう」
ノア・カレンバウアーと思われる人物は、トマスと三喜雄を順に見た。トマスが慌てて彼に礼を言い、三喜雄もそれに続いた。ドイツではあまり誰もしないのでたまに笑われるのだが、ついぺこりと頭を下げてしまう。
フォーゲルベッカーのチョコレートはカカオとミルクの比率を変えたものを数種類取り揃えていて、カレンバウアーの髪や瞳は、一番ミルクの多い「カフェオレ」という商品の色に似ている。比較的手軽に買えるこのチョコレートが割と好きな三喜雄は、彼の髪を見て、美味しそうな色だなと思った。そして次の瞬間、自分がかなり疲れていると実感した。
第一印象のカレンバウアーは、感じの良い上品な人物だった。三喜雄より7つか8つほど年齢は上だろうか。
「片山くんは今夜がデビューだと聞いた、とてもチャーミングなパパゲーノだったよ」
彼はゆったりと話してから、手に持っていた淡いクリーム色の薔薇の花束を、三喜雄に差し出した。えっ、と小さく言った三喜雄は、理解不能な展開に警戒し、後退りそうになる。何故公演のスポンサーが、オペラデビューした一介の学生にわざわざ花を持ってくるのだろう。少なくとも日本では考えられないし、ドイツでもそうそうあることではないと思う。